【応仁の乱】1467年(文正2年)から1477年(文明10年)まで

この戦いを書くだけでも本来ならばかなりの内容になってしまいますが、出来るだけ簡潔に書きたいと思います。

簡単に言ってしまうと足利将軍家の後継者争いが全国各地に飛び火したということになるんでしょうか?・・・簡潔にしすぎ?!

■時代背景
室町幕府8代将軍・足利義政の時代になる。
この後継者争いを、義政の弟・義視と義政の子・義尚(母は日野富子)が演じることになる。

同時期に三管領の畠山氏や斯波氏も家督争いを始めていた。

戦いは義視を推す細川勝元そして畠山政長・斯波義敏グループ(東軍)と義尚を推す山名宗全そして畠山義就・斯波義廉グループ(西軍)との対立となり、
細川勝元を大将とする東軍・16万余と山名宗全を大将とする西軍・11万余が京都を中心に戦いを繰り広げることになる。


■経過
畠山家の対立に端を発し、1467年(応仁元年)に最大の戦い『相国寺の戦い』が起こるが、以後は一進一退の攻防戦が繰り広げられ、こう着状態が続く。


■結果
1473年(文明5年)3月18日に山名宗全が死亡。つづいて5月11日に細川勝元も死亡。12月19日には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。その後、1474年(文明6年)4月3日に、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。

その後も残存勢力による小競り合いが続いていたものの、1477年(文明9年)11月11日に細川政元が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し京都での戦闘は収束した。11月20日に、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され10年に及ぶ「応仁の乱」の幕が降ろされた。

この応仁の乱により全国各地の混乱状態はましていき群雄割拠の時代に突入する。

■『創』の感想(仮)
この応仁の乱からちょうど100年後、足利義昭は京都から追放され、室町幕府が滅ぶんですよね(まあ正確に言うと義昭はこの後も将軍職は失っていないので”滅亡”という表現は適切ではありませんが・・)。それ以後もまだまだ各地で合戦はつづくがようやく天下統一に向けて時代が動き出す。今の時代では考えられないですよね。日本各地で戦いが繰り広げられる。それも150年近くにわたって・・・
想像がつきませんね。


■参考文献
戦国合戦事典―応仁の乱から大坂夏の陣まで PHP文庫
小和田 哲男 (著)

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このコーナーは主に上記の小和田先生の著書を参考に進めていきたいと思います。いろいろな合戦が短くわかりやすく紹介されています。非常に読みやすく参考になりますよ。