話が前後してしまいますが、五十子の戦いに参戦していなかった太田道灌は今川家の相続問題の調停に行っていたと書きましたが、どのような問題だったのか?
■今川家の内紛
1476(文明8)年2月、今川義忠は将軍・足利義尚の命により遠江(静岡県)の斯波党を討伐のため出陣。
その帰途を斯波の残党に襲われ討ち死にしたことにより始まる。
遺児の竜王(後の氏親:桶狭間で討ち死にする義元の父)が幼かったため、家臣の間で内紛が起きます。
竜王は一時、母・北川殿(北条早雲の妹)と共に身を隠す。
この内乱鎮圧のために、太田道灌が上杉政憲と共に派遣されます。
この二人に北条早雲は甥に当たる竜王を後継者にするべく、太田道灌らを納得させる調停案を進言。筋の通った献策に太田道灌らは賛同し、今川家の内紛は収まります。
この内紛、単なる内紛ではなく、その後の『桶狭間の戦い』や『徳川家康の登場』につながっていくもので、戦国時代の大きなのターニングポイントだったように思います。
■今川家の内紛
1476(文明8)年2月、今川義忠は将軍・足利義尚の命により遠江(静岡県)の斯波党を討伐のため出陣。
その帰途を斯波の残党に襲われ討ち死にしたことにより始まる。
遺児の竜王(後の氏親:桶狭間で討ち死にする義元の父)が幼かったため、家臣の間で内紛が起きます。
竜王は一時、母・北川殿(北条早雲の妹)と共に身を隠す。
この内乱鎮圧のために、太田道灌が上杉政憲と共に派遣されます。
この二人に北条早雲は甥に当たる竜王を後継者にするべく、太田道灌らを納得させる調停案を進言。筋の通った献策に太田道灌らは賛同し、今川家の内紛は収まります。
この内紛、単なる内紛ではなく、その後の『桶狭間の戦い』や『徳川家康の登場』につながっていくもので、戦国時代の大きなのターニングポイントだったように思います。