ここで戦国時代を語る上で重要な人物である、朝倉敏景(1428〜1481年:正長元年〜文明13年)について書きたいと思います。

この朝倉敏景(別名・孝景)は前述の「織田家発祥の地」である越前に朝倉氏5代100年の基盤を築いた人物で、戦国時代の先駆者といえる人物なのです。

朝倉氏は織田氏同様、越前守護の斯波氏の家臣でした。
朝倉敏景の代になり三家老の一人に昇進しました。

1452(享徳元年)その後の応仁の乱の引き金になる出来事が起こります。
守護の斯波義健が死にます。その養子の義敏が三家老(甲斐・朝倉・織田)により追放され、義廉を新たに養子とします。

三家老の推す斯波義廉は西軍の山名宗全に属していましたが、東軍の細川勝元が謀略を仕掛けます。

三家老の一人、朝倉敏景に「寝返れば越前の守護にする」と持ちかけます。
宿願を果たすべく、迷わず東軍に寝返り他の家老と争います。

朝倉敏景は、これにより応仁の乱の中頃(1472年頃)には、越前をほぼ手中に収め斯波氏より守護の座を奪ってしまったのです。
下克上の始まりですね。

この朝倉敏景という人物は合理的精神の持ち主で、信長を思わせるようなところがかなりあります。

それが敏景の定めた家訓・朝倉敏景十七箇条(三楽堂さんのHPに詳しく書かれています)に表れています。

そして、この朝倉家は同じ合理的精神の持ち主である織田信長によって滅ぼされます。(1573年のことになますね)

北条早雲といい朝倉敏景といい、初代は偉大な人物なのに、ともに5代目で滅んでしまうとは、皮肉ですね。