今回は越前のお隣・加賀国の一向宗について書きます。

一向宗といえば後に本願寺一向一揆として、織田信長を最も苦しめる最大の難敵ですね。

応仁の乱の頃、加賀の守護は富樫家が務めていました。
しかし、ここも他家同様に、分裂します。

文明6年(1474年)戦いが勃発。
東軍の政親、その弟・幸千代は西軍につきます。
弟・幸千代が真宗・高田派を味方に付けたのに対抗するため、政親はその敵対関係にある本願寺派を味方につけます。

この戦いは、一向宗徒が大いに奮戦し、幸千代に味方した守護代の小杉某を討ち死にさせるなどし、東軍の政親が勝利を収めるも一向宗徒にも多くの犠牲が出ました。

一向宗徒の力により守護の座を回復した富樫政親でしたが、その力を逆に恐れ今度はその一向宗を弾圧を考えます。

長享元年(1487年)富樫政親が将軍・義尚の命で近江の六角高頼討伐に出陣。
その間に一向宗は富樫泰高を擁し決起。あわてて帰国した政親の拠る高尾城(金沢市)を攻めます。激しい攻防の末、政親は切腹して果てます。(一説には討ち死にとも)

これにより、長享2年(1488年)「百姓の持ちたる国」が誕生します。