織田信秀
1510(永正7年)〜1551(天文20年)尾張にて誕生。織田信定の子。信長の父。通称三郎、弾正忠のち備後守を名乗る。
尾張守護斯波氏の臣。尾張国下4郡の守護代・織田大和守達勝に仕えた清洲三奉行の一人。
信秀は、交易の重要拠点である湊町・津島を支配下に置き、その経済力により勢力を拡大する。

1532(天文元年)、主家の大和守達勝と対立。翌年には和睦。

1538(天文6年)、今川氏豊の那古野城を奪う。これ以降、1560年の桶狭間の戦いまで今川家と長い抗争が繰り広げられる。

1540(天文9年)、三河国安祥城を攻略し、三河進出の拠点を得る。

1542(天文11年)、三河小豆坂にて今川義元勢を破る(第一回小豆坂の合戦)

1547(天文16年)、美濃国斉藤道三と激突(加納口の合戦)。稲葉山城下まで迫るも敗れる。

1548(天文17年)、再び三河小豆坂にて今川軍と激突。この戦いに敗れる(第二回小豆坂の合戦)。この年秋、斉藤家と和睦。信長と帰蝶の婚姻が成立。

1549(天文18年)、三河国安祥城を今川・松平連合に奪われる。長男・信広が人質となり、竹千代(後の徳川家康)と人質交換を行う。

1551(天文20年)、3月3日流行の病で死去。享年42歳。法名は万松院桃巌道見。

一時は尾張下四郡や西三河まで版図を拡大し、織田家随一の勢力を誇りながらも尾張統一には至りませんでした。しかし、信秀が残した家臣や経済力などを嫡子・信長が見事に使い、尾張一国の統一どころか天下を狙えるまでに織田家は成長します。