1553(天文22)、閏1月、信長の最も信頼していた、傅役の平手政秀が切腹

信長公記によると、「信長公を守り立ててきた甲斐がないので、生きていても仕方がない」という理由での自害だったようです。

信秀の死後、いっこうに改まらない信長のうつけ振りに落胆し、自分の傅役としての力不足を感じ、死を持って信長を諌めようとしたようです。

ただ、他にも要因があるようで、この切腹の前にちょっとした事件がありました。
政秀には三人の息子(長政・監物・汎秀)がいましたが、長男の長政が名馬を持っていました。それを信長が所望したが、長政はこれに応じませんでした。
これを根に持った信長と主従関係が不和になってしまい
、こんなことも政秀を悩ませていたのかもしれませんね。


政秀は、幼くして両親と離れ那古野城主となっていた信長にとって、ただの傅役ではなく、親みたいな存在だったと思います。その政秀の死は、もしかしたら父・信秀の死より悲しいことだったかもしれません。

しかし、さすがは?信長、まだ行状を改めませんでした。
ここまでくると本当に「うつけ」なんじゃないかと周囲の家臣や領民たちも思っていたようで、この噂は近隣諸国にも広がり、やがて舅の斉藤道三の耳にも「信長は“真の”うつけ」であると伝わることになります。

そして、有名な「正徳寺の会見」を迎えることになります。続きは次回。

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この年、武田信玄と上杉謙信の有名な戦い「川中島の戦い」が始まります。