平手政秀の死から約3ヵ月後の1553(天文22)年4月下旬突如、斎藤道三から信長に対面したいという知らせが届きます。

1548(天文17)年、斉藤道三の娘・帰蝶と婚姻してから約5年、この時まで道三と信長は一度も会ったことがありませんでした。戦国時代には特に珍しいことではなかったようです。

前述のように、「信長が大うつけ」であると周りが騒ぎ立てるので、道三はそうではないと口では言いながら、少々不安になったのか自ら真偽の程を確かめようと思ったようです。

その申し出に信長は、斎藤家の謀略の可能性もあるのに、迷うことなく承諾します。

場所は、富田の正徳寺(聖徳寺)。現在の愛知県一宮市にあり、美濃と尾張の守護の許可状を取って税を免除されている所。


信長公記によると、道三方は、古老の者7〜800人ほどに折り目正しい肩衣・袴姿の上品な格好をさせ正徳寺の御堂の縁並んで座らせ、その前を信長が通るよう準備し信長の度肝を抜こうという魂胆だったらしい。

そして道三自らは、町はずれの小屋に隠れ信長の行列を覗き見します。

その時の信長の格好は、父信秀の葬儀の時を思わせるような、髪は茶せん、湯帷子(ゆかたびら:入浴の際に着用する浴衣みたいなもの)を袖脱ぎにし(上半身裸か片側だけ脱いだ状態)、大刀・脇差をわら縄で巻き、太い麻縄で腰の周りに火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、袴は虎と豹の皮を四色に染め分けた半袴だったようです。

『老人雑話』という江戸時代の書には信長の着物に大きな陰茎、ようするに“チンチン”が染め抜かれていたという話もあります。信長らしい??

信長方の行列は、道三方と同様、7〜800人。しかし、その装備がすごく、柄の長さ三間半(詳しくは水色蜻蛉さんのブログ参照。)の朱槍500本。弓・鉄砲隊500挺を持たせ、行列の先頭を元気な足軽を走らせたそうです。

弓・鉄砲隊500挺のうち、鉄砲(火縄銃:種子島)をどのくらい持っていたかは不明ですが(弓も鉄砲も500挺ずつとも考えられる)、1543年に種子島へ漂着したポルトガル人が伝えてから、わずか10年後のことで、まだ合戦用の武器としては定着していない時期で、早くもそれを装備していた信長軍を見て、道三も驚いたことでしょう。


また、1549年(あっ戦国自衛隊の年だ・・)にまだ家督をついでいない時期に信長が500挺の種子島銃を注文したという史料もあり、ポルトガル人から種子島領主が2挺の銃を一挺1000両で買ったという話から考えると、500挺の銃は莫大な金額だったはずで、父・織田信秀が作り上げた財産はものすごいものだったと思われます。


話がそれて、文章が長くなってしまったので、続きは明日!
大変身した信長と道三がいよいよ対面します。お楽しみに!