今日は休日出勤だったんですが、夕方の地震びっくりしました〜!
一時建物の外に非難しましたが、私の周辺は特に大きな問題はありませんでした。
休出だから早く帰してくれると思ったのにきっちり定時まで働かされました・・・
まあ、自宅も何事もなくPCも無事でホッとしてます。

ふと戦国時代の地震が気になって、検索してみたらやっぱりインターネットはすごい、詳しく調べてる人がいました。

吉井敏尅さんという方のHP『日本付近のおもな被害地震年代表』を見ると以下のような感じです。

1494 6 19 (明応3 5 7)(M 6)
大和:諸寺破損,矢田庄(大和郡山の西)の民家多く破損.余震が翌年に及んだ.

1498 7 9 (明応7 6 11)(M 7〜7.5)
日向灘:九州で山崩れ,地裂け泥湧出.民屋はすべてこわれ死多数.
伊予で地変.同日畿内に地震,被害はなかったらしい.同じ地震であれば震域が広く,震央に変更が必要.

1498 9 20 (明応7 8 25)(M 8.2〜8.4)
東海道全般:紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で振動大きかったが,震害はそれほどでもない.津波が紀伊から房総の海岸を襲い,伊勢大湊で家屋流失1千戸,溺死5千,伊勢・志摩で溺死1万,静岡県志太郡で流死2万6千など.南海トラフ沿いの巨大地震とみられる.

1502 1 28 (文亀1 12 10)(M 6.5〜7)
越後南西部:越後の国府(現直江津)で潰家,死多数.会津でも強く搖れた.

1510 9 21 (永正7 8 8) (M 6.5〜7)
摂津・河内:摂津・河内の諸寺で被害.大阪で潰死者があった.余震が70余日続く.

1517 7 18 (永正14 6 20)
越後:倒家が多かった.史料少なく詳細不明.

1520 4 4 (永正17 3 7)(M 7〜7T)
紀伊・京都:熊野・那智の寺院破壊.津波があり,民家流失.京都で禁中の築地所々破損した.

1525 9 20 (大永5 8 23)
鎌倉:由比ヶ浜の川・入江・沼が埋まって平地となった.27日まで昼夜地震があった.

1579 2 25 (天正7 1 20) M 6.0
摂津:四天王寺の鳥居崩れ,余震3日にわたる.


1586 1 18 (天正13 11 29) (M 7.8)
畿内・東海・東山・北陸諸道:飛騨白川谷で大山崩れ,帰雲山城,民家300余戸埋没し,死多数.飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害.
阿波でも地割れを生じ,余震は翌年まで続いた.震央を白川断層上と考えたが,伊勢湾とする説,二つの地震が続発したとする説などがあり,不明な点が多い.伊勢湾に津波があったかもしれない.

1589 3 21 (天正17 2 5) (M 6.7)
駿河・遠江:民家多く破損し,興国寺・長久保・沼津などの城塀が破壊した.

1596 9 4 (慶長1 閏7 12)M 7.0
豊後:7月3日より前震があり,閏7月11日から多発してこの日大地震.高崎山など崩れる.海水が引いた後大津波が来襲し,別府湾沿岸で被害.大分などで家屋ほとんど流失.「瓜生島」(大分の北にあった沖ノ浜とされる)の80%陥没し,死708という.

1596 9 5 (慶長1 閏7 13)M 7H
畿内:京都では三条より伏見の間で被害が最も多く,伏見城天守大破,石垣崩れて圧死約500.諸寺・民家の倒潰も多く,死傷多数.堺で死600余.奈良・大阪・神戸でも被害が多かった.余震が翌年4月まで続いた.

1605 2 3 (慶長9 12 16) A:M 7.9 B:M 7.9
東海・南海・西海諸道:『慶長地震』:地震の被害としては淡路島安坂村千光寺の諸堂倒れ,仏像が飛散したとあるのみ.津波が犬吠崎から九州までの太平洋岸に来襲して,八丈島で死57,浜名湖近くの橋本で100戸中80戸流され,死多数.紀伊西岸広村で1700戸中700戸流失,阿波宍喰で波高2丈,死1500余,土佐甲ノ浦で死350余,崎浜で死50余,室戸岬付近で死400余など.ほぼ同時に二つの地震が起こったとする考えと,東海沖の一つの地震とする考えがある.

1611 9 27 (慶長16 8 21) M 6.9
会津:若松城下とその付近で社寺・民家の被害が大きく,死3700余.山崩れが会津川・只見川を塞ぎ,南北60kmの間に多数の沼を作った.

1611 12 2 (慶長16 10 28) M 8.1
三陸沿岸および北海道東岸:三陸地方で強震.震害は軽く,津波の被害が大きかった.伊達領内で死1783,南部・津軽で人馬の死3千余という.三陸沿岸で家屋の流出が多く,北海道東部でも溺死が多かった.

1614 11 26 (慶長19 10 25)
従来,越後高田の地震とされていたもの.大地震の割に史料が少なく,震源については検討すべきことが多い.京都で家屋・社寺などが倒壊し,死2,傷370という.京都付近の地震とする説がある.

1615 6 26 (元和1 6 1)(M 6Q〜6T)
江戸:家屋が倒壊し,死傷多く,地割れを生じた.

以上、原文ほぼそのまま引用させていただきましたが、お気づきでしょうか?
なんと、信長の活躍した時代に起きた大きな地震はたったの一度だけなんですね。それ以外の時期は数年おきに日本のどこかで大きな地震が起きているのに不思議ですね。記録が残っていないだけなんでしょうか?

でもその一回起きた地震ですが、1579年(天正7.1.20)といえば織田軍は摂津・播磨方面攻略中で、戦と地震で大混乱だったかもしれません。
しかし、「信長公記」には、地震について特に書かれていないので、たいした被害はなかったのかもしれませんね。
ちなみに信長はというと、この年の正月は安土城にて迎えているので、摂津にはいなかったと思います。たぶん大きな揺れを感じた程度だったのでは?