足利義輝

13代将軍足利義輝の暗殺ですが、信長の歴史を語る上で重要な事件なので少し触れておきたいと思います。

この事件がなければ、義昭を奉じて上洛するという事もなくなり、天下統一の計画が大きく変わったであろう。そして、なんといっても明智光秀との出会いもなかったかもしれない。(まあ、光秀ほどの能力の持ち主。いずれ出会ってしまったであろうが・・・)

信長の堂洞砦攻略の年、1565(永禄8)年5月19日、義輝は松永久秀や三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)に攻められて、二条御所にて討ち死にします。

義輝は1546年、わずか11歳のとき父・義晴から将軍職を譲られました。
この時期、義晴・義輝父子は、管領細川晴元対立し近江にいました。
将軍に就任した義輝は1550年、細川家で実権を握っていた三好長慶と和睦し京へ復帰。
1564年、対立を繰り返してきた三好長慶が死去。これを機に一気に将軍の権威復活をもくろみますが、松永久秀や三好三人衆が実権を握り思うようになりません。
義輝もこの専横ぶりについに打倒、松永久秀を決意。

しかし、この動きは察知され、1565(永禄8)年5月19日の暗殺事件へとつながっていきます。

義輝は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪将軍で、襲撃を受けた時、抜き身の刀を何本も突き立て、攻め寄せてくる敵兵を次々討ち取ります。刀を次々取り替えながら奮戦するも、多勢に無勢。ついに力尽き討ち取られます。

義輝は戦いの直前、死を覚悟したのか家臣と別れの盃を交わしたそうです。


この義輝襲撃を読むとなんとなく本能寺の変と重なる気がします。
信長も明智勢の襲撃を受けると、いくつも弓を取り替えながら戦いすべての弓がだめになると槍に持ち替え奮戦。信長は切腹しましたが、信長も義輝も共に無念であったであろうと思います。