今回はやや時期が戻ってしまいますが、足利義輝暗殺直後の義昭の状況から信長との出会いまでを書きたいと思います。けっして二人は出会い系サイトで出会ったわけではありません(笑)

9月21日の記事で書きましたが、1565(永禄8)年5月19日足利義昭の実兄・13代将軍足利義輝は松永久秀や三好三人衆に攻められ殺されました。

この時、義昭はどうしていたか?

義昭は、この頃出家して覚慶と名乗り奈良の興福寺一乗院の門跡となっていました。
松永・三好らは、義輝を殺害すると、次に末弟の措苑寺院主の周舛盪Τ欧靴泙靴拭そして、次弟の興福寺の覚慶のもとにも松永・三好軍が迫ってきました。
しかしなぜか覚慶は殺害されず、幽閉されただけで済みました。
次期将軍に覚慶を就任させる考えがあったのかもしれません。

約2ヵ月後の7月下旬、細川藤孝を中心とした幕臣らが協力して覚慶を救出して近江国甲賀の和田惟政の館に匿います。
ここで還俗して、名を義秋(まだ義昭ではない)とします。
この直後と思われますが、義輝・義昭の従兄弟にあたる義栄が松永久秀らに擁立され足利家の家督相続を認められてしまいました。(この時点で義栄はまだ将軍にはなっていません)

危機を感じた覚慶や細川藤孝ら幕臣は覚慶を擁して上洛してくれる大名を探します。
武田や北条・上杉、有力大名でしたが京からやや遠く互いに争っている状況で難しい情勢でした。
近江を治めていた六角氏も家中に問題を抱え上洛どころではありませんでした。

そんななか1565(永禄8)年12月、まだ尾張一国の大名だった信長が細川藤孝に上洛の意思のあることを書状で伝えます。

この書状を受け、翌年1566(永禄9)3月、細川藤孝らは織田家と斎藤家の和睦を働きかけます。
この策は成功し、信長の上洛が8月に決まります。
しかしこれを知った松永久秀や三好らは、斎藤義龍に働きかけこの和平工作を破綻させます。


これにより8月の上洛が不可能になり、義秋や藤孝らは信長をあきらめ、閏8月近江を出て若狭の武田義統を頼ります。しかし、若狭武田氏も上洛の力がないと見るや翌月には越前の朝倉義景のもとへ赴きます。

しかし、朝倉義景も上洛の意思を明確にしないまま一年の年月が流れてしまいます。
信長は義秋一行が流浪する間、浅井長政や武田信玄とも同盟を結び、美濃斎藤氏を滅ぼし上洛の準備を着々と進めていきます。

尾張・美濃二カ国の大名となった信長に、義秋や細川藤孝らは再び目をつけます。
斎藤氏滅亡の翌年1568(永禄11)2月、松永久秀らに擁立された義栄が第14代将軍に就任しました。
そのような状況下、細川藤孝は信長と交渉を再開。信長に義秋(義昭)を奉じて上洛する意思のあることを確認。
1568(永禄11)7月25日義秋一行は美濃立正寺に迎えられることとなります。
ついに信長と義昭は出会います。そして、運命の出会いがもう一つ・・・
この時、または事前交渉のとき、明智光秀ともはじめて顔を合わせたものと思われます。信長・義昭・光秀・・・ついに歴史は大きく動き出します(大げさ?)

尚、義秋がいつから“義昭”に名を改めたかはっきりしませんが(私が知らないだけです)、おそらく征夷大将軍に就任したときではないかな〜と個人的に思っております。

※『関ヶ原ブログ』のmansaku殿の情報により、義秋から義昭に改名したのは、1568(永禄11)年4月だということがわかりました。情報提供ありがとうございます!

こうしていろいろな方にコメントを頂き、自分の文章を補っていただけうれしく思います。皆様、今後ともよろしくお願いいたします!