1570(元亀元)年1月、義昭に突きつけた五カ条の約定と同日付で信長は全国の有力諸大名に上洛を促す書状を送っています。

その内容は「禁裏の修理及び幕府の御用、その他“天下静謐”のため二月中旬に(信長が)上洛するので各々方も上洛して朝廷や将軍に挨拶にくるように」ということだったようです。

静謐(セイヒツ)とは、「世の中が穏やかに治まっていること」なので、「天下静謐のため」とは、私流に解釈すると“戦のない世を信長が作るため”という意味のような気がします。専門的解釈はもっと意味が深いようですが、難解なので追求しません。

この書状は、朝廷と将軍への挨拶を強調していますが、要するに「信長に挨拶しに来い」と言っていると受け取れます。

信長は、予定よりもやや遅れて2月25日上洛の途につきます。
さらに遅れて出発したにもかかわらず、『信長公記』には3月3日、安土の常楽寺にて“相撲大会”を催しています。これはゆっくり上洛して、書状を受け取った諸大名(勢力)がどのような反応を見せるか伺っていたものと思われます。
そして、3月5日京に到着します。

信長が上洛するのを事前に到着していた、徳川家康や北畠具豊(信雄)・具房、三好義継、松永久秀、一色満信、三木自綱など多数の大名ほか公家衆や京の町衆が出迎えます。そして遠方の宇喜多氏や大友氏も使者を派遣してきたようです。
そんな中、近いにもかかわらず上洛してこない大名がいました。越前の朝倉義景です。
朝倉家にも書状は届けられていましたが、義景はこれを無視します。

信長はこれを機に越前攻めを決断、ついに朝倉氏との戦いが始まります。

尚、この上洛の宴席で義昭は信長に再び「もっと上位の官職に就かれたらいかがでしょう?希望があれば朝廷に取り次ぎますよ」と気を使いますが、このときも信長は辞退します。義昭としては気を使ったのに、またもや断られて内心面白くなかったでしょうね〜