朽木家家紋
1570(元亀元)年4月28日夜、信長の決死の脱出劇が始まります。本能寺の変の際の“家康の伊賀越え”を思わせる、“信長の朽木越え”です。

信長はわずかな供回りを連れ脱出を図ります。
金ヶ崎の退き口で重要な役割を果したのが金ヶ崎から京へ向かうルート上の中央・朽木谷を領する朽木元綱でした。
この時期、朽木氏は幕府の奉公衆でありながら、浅井氏の命に従っているという複雑な立場だったようです。足利義昭の臣でありながら信長に従う明智光秀のような立場だったのでしょうか?

この朽木氏は義昭が流浪時代、一時義昭を庇護したこともあり幕府寄りの人物でした。この朽木氏が信長に付くか?浅井長政に付くか?重大な決断に迫られます。
しかし、朽木元綱は迷うことなく信長に付くことを決め脱出を手助けします。

この時点でまだ信長と将軍義昭は決別していなかったので、信長に付いたのかもしれませんが、松永久秀が朽木元綱を説得したという話もあるようです。

朽木元綱の活躍により信長は無事京にたどり着きます。脱出から二日後、30日の夜のことです。このとき信長に付き従っていたのはわずか10人だったそうです。


余談ですが、この活躍のおかげかはわかりませんが、関が原の合戦の際、西軍に付いた朽木元綱は小早川秀秋の寝返りに便乗して、赤座氏や小川氏と共に東軍に寝返りますが、赤座・小川は改易になる中、朽木氏のみ減封処分(後に元の石高に戻される)で取り潰されずに済みました。
※mansaku殿の『関ヶ原ブログ』参照