1570(元亀元)年9月16日、突如として浅井・朝倉連合軍が信長の勢力下にある琵琶湖・南部の坂本に侵攻してきます。この地を守備していたのは、信長の弟・信治と森可成(蘭丸の父)以下わずか3000の兵でした。対する浅井・朝倉連合軍は3万。これには本願寺の一向衆も含まれていたと思われます。
琵琶湖の西岸を一気に南下し、京に迫る勢いでした。

19日、森可成は一千の兵を率いて果敢に出撃します。虚を突かれたのか浅井・朝倉軍は緒戦のこの戦いに敗れ退却を余儀なくされます。

しかし、翌日には体勢を立て直し再び、坂本に押し寄せてきます。多勢に無勢、浅井・朝倉軍の猛攻の前に信長の弟・信治、森可成を含む数百人の織田軍の兵が討ち死にします。

浅井・朝倉軍はさらに南下し宇佐山城に迫ります。
宇佐山城には可成の与力・武藤五郎右衛門と肥田彦左衛門らが入り応戦します。
城兵の堅い守りにより苦戦を強いられた浅井・朝倉軍は城攻めをあきらめ京を目指します。京に入ると山科・醍醐の町を焼き払いました。

22日、浅井・朝倉の挙兵により弟・信治や森可成が討ち死にした知らせを受けた信長は、冷静な判断力で采配を振るいます。
まず、先発隊として明智光秀と柴田勝家(『信長公記』には、勝家は退却時の殿を務めたとなっています)に京・二条御所の守備を命じ京へ向け出発させます。
さらに三好軍の籠もる野田・福島の両砦の包囲を解き、23日全軍を天満森(大阪市北区)に集結させその日の夜には信長も義昭も京に到着するという早業を見せます。
後の秀吉による“中国大返し”を思わせる早業に浅井・朝倉軍は近江まで兵を引きます。
翌24日、信長は京を出発し一気に坂本まで兵を進めます。浅井・朝倉軍は予想以上の早い動きを見せる織田軍の前に動揺し比叡山に逃げ込みます。

信長は比叡山延暦寺の僧を呼び寄せ「信長に味方すれば織田領にある延暦寺の寺領の返還」を約束、「もし出家の道理で一方に味方することが出来ないなら浅井・朝倉にも味方しないよう」交渉します。さらにこれを朱印状にしたため稲葉一鉄に手渡し延暦寺に向わせます。そのとき付け加えて、“これに従わねば全山焼き討ち”にするという強硬な姿勢も示します。
しかし、延暦寺側はこの提案に何も反応しませんでした。

これは信長に敵対することを意味し、説得をあきらめた信長は比叡山の麓を包囲し、以後約三ヶ月に渡って織田軍と浅井・朝倉軍はにらみ合いを続けることになります。