武田勝頼
1574(天正2)年1月、越前は本願寺の一向一揆によりほぼ全域を支配されますが、信長はこれに対し、羽柴秀吉や丹羽長秀らを越前敦賀に派遣しますが本格的な攻撃はしませんでした。前述の通り、武田家が再び動き出す気配を見せていたためです。

武田信玄の死は、この時点では隠されていたようですが、すでに周知の事実でした。そして家督を相続したのは、信玄の孫で勝頼の嫡男・太郎(後の信勝)でした。勝頼はその後見役であったようです。

ちなみに武田信勝の母は信長の養女なので、系図的には信勝は信長の孫にも当たることになります。

話がそれましたが、越前の一向一揆と連動するように武田勝頼も信濃から美濃方面へ軍勢を進める気配を見せていました。この情報により信長は越前の一向一揆に対し主力を傾けることが出来ませんでした。

1月27日、武田勝頼が美濃岩村へ軍勢を進め明智城を包囲したとの情報が信長のもとへ入ります。

ちなみに、この時期、美濃・岩村は武田家が支配していました。三方ヶ原の合戦の折、武田軍の別働隊を指揮した秋山信友が岩村城を陥落させています。

2月1日、信長は尾張・美濃の軍勢に出陣を命じます。
5日には自らも嫡子・信忠と共に出陣。御岳(可児郡御岳町)へ進み、翌日、高野(瑞浪市)に陣を構えます。

この一帯は山岳地帯の難所続きで、武田軍への総攻撃に手間取っている間に明智城の飯羽間右衛門尉が武田に内通し、明智城は落城してしまいます。

信長は、明智城の奪還をあきらめ、押さえとして高野と小里(瑞浪市)に砦を築き、高野には河尻秀隆、小里には池田恒興を城番として置き、2月24日、岐阜城に帰還します。

以後、織田・徳川連合軍vs武田勝頼の戦いが繰り広げられることになります。