1575(天正3)年4月6日、信長は自ら軍を率い大坂方面へ向けて出陣します。その数10万。動員可能な兵力をほとんど率いての出陣でした。

8日、若江(東大阪市)に陣を構えると、三好康長(長慶の叔父)が籠もる高屋城の攻撃を命じます。城下町を焼き払うなどしているところへ三好方も出陣してきます。
一進一退の攻防が続き、織田方にも多数の死傷者が出ます。
しかし、織田の大軍を前に三好方は籠城を余儀なくされたようです。

駒ガ谷山(羽曳野市)から戦況を見つめていた信長は陣をこの地に移し、次の命令を下します。

佐久間・柴田・丹羽・塙直政(後の原田直政)に命じ、誉田八幡(羽曳野市)・道明寺河原(藤井寺市)方面へも攻撃を仕掛け、敵陣を撃破し、麦畑を焼き払うなどします。

12日、住吉(大阪市住吉区)に陣を移すと14日にかけて、この地に10万近い兵力を集中させ各地の村や田畑を焼き払います。これにより石山本願寺に集まる農作物は激減することになります。

16日、三好方の主力である十河因幡守およびその一族と香西越後守らが立て籠もる新堀城を攻略するため遠里小野(大阪市住吉区)に陣を移します。
周辺の田畑を焼き払うと、17日には自らも出陣し新堀城の攻撃を開始します。

19日夜、信長は諸隊に総攻撃を命じます。火矢を打ち込み堀を草などで埋め立て次から次へ攻めかかります。織田軍の猛攻の前に十河因幡守・越中・左馬允を含む170余りの屈強の士が討ち死に。香西越後守は生け捕りにされますが、信長の下へ連れて行かれます。度重なる敵対に我慢ならなかった信長はその場で香西の首をはねます。

こうした状況に観念した高屋城の三好康長は松井友閑を通じて降伏を申し入れます。
信長はこれを許し、その後、塙直政に命じ高屋城など河内の敵情は全て破却されます。

三好康長は、三好家の中心的人物で、依然四国にも勢力を持っている三好一党の支配も考え、信長は康長を許したようです。

このように三好勢が一掃されてしまったため、石山本願寺の顕如は孤立していきます。
21日、石山本願寺の総攻撃を目前にしながら、信長は京に戻ってしまいます。
表向きは、作戦終了による退却でしたが、実は徳川より次々と武田勝頼侵攻の知らせと援軍要請の書状が信長の元へ届けられていたようです。

京へ戻ったこの日、21日武田勝頼率いる1万5000の兵が三河・長篠城を包囲していました。

次回、ついに長篠・設楽原で織田・徳川連合軍と武田勝頼が激突します!