落合佐平次背旗 鳥居強右衛門逆磔図
1575(天正3)年4月、父信玄の葬儀を終えた武田勝頼は、長篠城“奪還”のため出陣します。率いた兵は1万5000。21日、奥平貞昌(後の信昌この時21歳)以下500人が守る長篠城を包囲します。

この長篠城は、信玄健在のときは武田方の城でした。当時の城主は、奥平貞昌の父・貞能。しかし、“信玄死す”の情報を得た徳川家康は駿河に攻め込み5ヵ月後、娘を信昌に嫁がせると約束し、奥平貞能・貞昌父子を寝返らせていました。

勝頼は、長篠城攻略のためその南を流れる大野川の対岸の鳶ヶ巣山に砦を築き叔父の武田信実を配します。鳶ヶ巣山以外にもいくつか砦を築いていたようです。

家康はこの報に接し、単独での救援は不可能と判断し信長に援軍を要請します。
家康が動かないと判断した勝頼は、長篠城を包囲しつつその南西に位置する二連木城(豊橋市)と牛久保城(豊川市)にも攻撃を仕掛ける余裕を見せます。しかし、再び軍を返し長篠城の攻撃を開始します。

家康からの救援要請を受けた信長は、配下の諸部隊から鉄砲隊を少しずつ引き抜き、1000〜1500挺ほどの鉄砲を用意します。(※3/7 鉄砲数訂正しました。)

5月13日、軍備の整った織田信長・信忠父子は3万近い軍勢を率い出陣。その日は熱田に陣を張り、翌日14日岡崎城に到着し、家康と合流します。

この14日、奥平貞昌は武田軍の攻撃をかろうじて防ぎながらも、その限界が近づきつつあり、家康に使者を送ることにします。しかし、城外には1万を超える武田軍がいてとても抜け出せる状況ではなく、使者に名乗り出るものがいませんでした。そんな中、鳥居強右衛門勝商(当時36歳?)が名乗りを上げます。水練が得意だったとも言われ、その夜、暗闇の中を強右衛門は、城の北側を流れる寒狭川の急流に潜り、決死の脱出を成功させます。

信長と家康に直接、城の状況を伝えることができ、援軍の確証を得た強右衛門は、休むことなく城に戻ることにします。

しかし、途中武田軍に捕まってしまいます。武田軍は、強右衛門に「援軍は来ない」と城兵に伝えれば命は助けると約束したようです。

そして、長篠城の目の前に磔にされた強右衛門は、城兵に向かって叫びます。
間もなくお味方の大軍が到着!」
城内は、歓喜に包まれますが、強右衛門は即殺されてしまいます。

この強右衛門の活躍で、籠城をあきらめかけていた奥平貞昌ら城兵は再び士気を取り戻し、織田・徳川の援軍到着まで長篠城を守りぬくことに成功します。

次回、長篠城兵が待ちわびていた、織田・徳川の大連合軍が到着します!