千利休
1575(天正3)年10月28日、信長は京都や堺の茶人17人を招き京都・妙覚寺で茶会を催します。本願寺との和睦がなって一週間後のことです。

この時、茶頭を務めたのが千宗易のちの利休でした。『信長公記』にその名が登場するのはこの時が初めてです。しかし、実際には七年前、信長が足利義昭を報じて上洛した直後、堺に2万貫文の矢銭を課しその交渉にあたった今井宗久、津田宗及らを通じて、この頃二人は出会ったようです。
『千利休由緒書』によるとこの頃、「御茶頭を仰せ付けられ三千石を給された」とあるそうです。

信長はこの時の茶会で、顕如が献上してきた茶壷「三日月」や「白天目茶碗」、「九十九髪」の茶入れや「松島」の茶壷など天下に名の知れた名物を披露しました。


利休は茶頭として信長に仕え、“あの”「蘭奢待」を下賜されるなど信長に厚遇されますがその一方で本能寺の変の(堺会合衆と組んでの)黒幕説もあります。(詳細はいずれかきたいと思います)

信長の死後は秀吉に同じく茶頭として仕えますが、1591(天正19)年2月突如秀吉に切腹を命じられその生涯を終えます。理由はいろいろ説がありますが、茶頭として信長・秀吉という天下人の側近くに仕え、政治的にも大きな発言力を持つようになったのかもしれません。それを疎ましく思った秀吉は利休の最大の理解者であり庇護者であった秀吉の弟・秀長の死後、利休を死に追いやります。
秀吉に諫言出来る者がいなくなりこの後、朝鮮出兵という暴挙を犯してしまいます。

この朝鮮出兵に関しては、ルイス=フロイスの書簡によれば信長も天下統一を果たした後、海外遠征(=朝鮮出兵?)を考えていたという記述もありますが、果たして信長が天下統一していたらどうなっていたんでしょうか??