1578(天正6)年2月3日、旧浅井氏の家臣で織田家に降っていた磯野員昌が信長の意向に背いたため怒りを買います。命の危機を感じた員昌は出奔してしまいます。

9日、吉野山中に潜んでいるのを同地の者に発見されます。員昌は磯貝久次に捕らえられ首をはねられ、その首は安土の信長の元へ届けられました。磯貝には褒美として黄金が与えられました。

磯野員昌の出奔により領主不在となっていた近江・高島郡は織田(津田)信澄が引き継ぐことになります。
この織田信澄は、信長の弟で家督相続を争った信勝(信行)の実子で、父・信勝の死後は柴田勝家に預けられ養育されました。

1555(弘治元)年、生まれというからこの時23歳になっていましたが、この頃には出奔し殺害された磯野員昌の養子になっていました。ゆえに磯野姓を名乗っていたと思われます。

この関係を考えると伊勢の北畠氏や神戸氏を乗っ取ったときと同様に磯野氏の養子になり磯野家を乗っ取ったのでは?と思えるような事件でした。

信澄はこの後、いつ頃かはわかりませんが津田姓(織田支族)を名乗り、明智光秀の娘を娶ることになります。織田姓を称していたかははっきりしません。

勇猛な性格だったようで信長にもその才覚を見込まれ重要視されていましたが、その血筋と光秀の娘婿であったことから後に非業の最期を遂げることになります。