別所長治
1578(天正6)年2月23日、播磨を完全に平定するため出陣した羽柴秀吉は別所長治の与力・嘉古川(加古川:兵庫県加古川市)の賀須屋武則の城に軍勢を配備します。自らは書写山(姫路市)に本陣を据え、攻撃の時を伺っていました。ちなみにこの秀吉軍には、摂津の荒木村重も加わっていました。

そんな秀吉の下に驚愕の知らせが届きます。東播磨随一の国人である別所長治が叛旗を翻し毛利方に寝返り、居城の三木城に籠城との知らせでした。
播磨平定を目前にした秀吉は、西に大国毛利氏、東に別所氏と挟み撃ちにあう状況になりたちまち危機に陥ることになりました。

この別所氏の離反は、23歳の若き当主・長治の意向ではなく、実権を握っていた叔父・三木賀相(吉親)の薦めによるものだったようです。

3月29日、戦略の変更を余儀なくされた秀吉は、まず三木城を囲みます。城兵はおよそ4・5千。しかし、周辺の支城(淡河・神吉・志方・高砂・野口など)の多くが別所氏と行動を共にしており三木城を一気に攻め落とすのは不可能な情勢でした。

4月3日、そこで秀吉は支城のひとつである野口城を攻め落とします。
しかし、この数日後、最も恐れていた事態が生じます。毛利の大軍が遂に動き出します。
4月中旬、播磨に入った毛利軍は、織田方の尼子勝久・山中鹿介らが守る上月城を包囲し、秀吉軍を牽制します。
野口城を攻め落とし、息つく間もなく上月城救援に駆けつけなくてはなりませんでした。秀吉は上月城の東・高倉山に布陣し毛利軍と対峙します。

このにらみ合いはこの後、二ヶ月に及びますが、秀吉軍の危機を知った信長は、この間、播磨救援のため軍備を整え、織田信忠を大将とした大軍勢が出陣することになります。