上月城の運命は前述のような悲惨な結果となりましたが、やや話を戻して上月城から撤退した秀吉と神吉・志方城を攻略するべく布陣を整えた織田信忠に触れたいと思います。

1578(天正6)年6月26日、上月城から撤退した秀吉は書写山(姫路市)まで軍を進めます。
一方の織田信忠は、滝川一益・明智光秀・丹羽長秀に命じ神吉城をけん制する為、三日月山(佐用郡三日月町)に登らせます。

27日、神吉城に総攻撃を仕掛けます。神吉城には信忠以下織田(神戸)信孝・林秀貞・細川藤孝・佐久間信盛が布陣。先陣として滝川一益・稲葉一鉄・蜂屋頼隆・筒井順慶・武井舜秀・明智光秀・氏家直通・荒木村重らが攻めかかります。

一方、志方城の備えとして織田(北畠)信雄以下丹羽長秀・若狭衆があたります。

織田方の総攻撃に対し、神吉城兵の反撃も凄まじく簡単には落城しませんでした。
織田方にも死傷者が続出、信孝も手に深手を負います。

翌日も攻撃を続け、堀を埋め立て築山を築きさらに攻撃を加えます。

その頃秀吉は但馬に立ち寄り、竹田城に弟・羽柴秀長を入れると再び書写山に布陣。

神吉城では苦戦が続き、織田(長野)信包、さらには志方城に備えていた丹羽長秀以下若狭衆も動員し攻め立てます。
こうして大砲を打ち込んだり坑夫に隋道を掘らせて攻めるなど昼夜を問わず攻め続けます。

凄まじい攻撃に神吉城からはついに詫びを入れ降伏を申し出てきますが、信長の命もあり聞き入れられず、織田方の攻撃はさらに激しさを増すことになります。