1578(天正6)年10月21日、堺での鉄甲船団の視察を終え、安土に帰国していた信長の下へ予期せぬ知らせが届きます。

「荒木村重が謀反を企てている」

この報を受けた信長は驚きと共に、この情報が本当なのかどうか疑います。
ただちに松井夕閑・明智光秀・万見仙千代を荒木村重の下へ派遣し、真偽を確かめさせます。

村重は使者に対し、「事実無根、謀反の意思はない」と説明しますが、「真であれば母親を人質として預け、出仕せよ」との命令には従いませんでした。

結局、村重は叛旗を翻し、居城である有岡城に籠城してしまいます。尼ヶ崎城主で嫡男の村安(光秀の娘婿)、さらに茨木城主で従兄弟の中川清秀、高槻城主の高山右近もこれに同調し、信長に叛旗を翻します。

謀反の理由は定かでありませんが、「半年以上前から毛利方と通じていた」とか、「従兄弟で与力の中川清秀の家臣が、包囲している本願寺へ米を密かに売っている」という噂が流れ、弁明のため出仕するつもりだったが、家臣に「疑われたからには弁明しても無駄。出仕すれば殺されてしまうから謀反するしかない」と説得されたなど言われていますが、いずれも推測の域を出ないようです。

村重の謀反は、対本願寺・毛利戦略を大きく揺るがすものになりました。この年2月には別所長治が謀反し、丹波では赤井氏や波多野氏が抵抗をつづけている状況。これに摂津の村重が謀反したとなっては、播磨の秀吉は、完全に孤立し、西国は完全に毛利氏勢力下になってしまい、天下統一が完全に頓挫する危機をはらんでいました。

信長は、この危機を脱するべく、村重のもとへ使者を送り説得を続けます。しかし、村重が翻意することはありませんでした。

11月3日、説得をあきらめた信長は、有岡城の村重を討つべく安土城を出発。京・二条新邸へ入ります。さらにここで、再度、明智光秀・松井夕閑・羽柴秀吉らを使者として送り、最後の説得を試みますが、説得は不調に終わってしまいます。

この頃、摂津の各城・砦には、本願寺攻めの監察役として、信長の小姓衆や馬廻衆が派遣されていましたが、村重の謀反により“人質状態”になってしまいました。しかし、村重は速やかに解放し、この時、長男・荒木村安の妻となっていた光秀の娘も離縁され送り返されました。