1578(天正6)年10月の荒木村重の離反で苦境に立たされた信長は、この危機を打開する一手を打ってきます。朝廷を利用し本願寺・毛利と和議を結び、その間に荒木村重に追随した高山右近・中川清秀らを調略し、村重を討つ。

信長は早速、正親町天皇に打診。当然ながら信長の相当の圧力もあったものと想像されますが、正親町天皇はこの願いを聞き入れ、公家の庭田大納言重保と勧修寺中納言晴豊を勅使として本願寺に派遣します。

しかし、本願寺の顕如は10月17日の時点で、荒木村重・村次父子と誓紙を交わし、村重が人質を送ることになっており、どのような状況になっても本願寺は荒木を見捨てない約束をしていました。この背後には、毛利家に身を寄せていた“将軍”足利義昭と毛利輝元が暗躍していたようです。

このような密約もあり、圧倒的に有利な状況でもあったため和議をすんなりとは受け入れませんでした。顕如は返事を引き延ばしこの間に毛利家と連絡を取り合います。

11月4日、しびれを切らせた信長は、朝廷に対し圧力を掛け、織田と毛利が講和するよう記した綸旨(天皇の意思を伝える命令書)をとりつけます。
勅使の庭田・勧修寺は、この綸旨を手に安芸の毛利輝元のもとへ向かう準備を進めていました。

6日、勅使の出発直前、毛利水軍600隻の大船団が大坂湾姿を現します。もはや和議は不可能な状況になってしまいます。
織田水軍が毛利水軍に大敗を喫してから二年の月日が流れていました。

しかし、今回、九鬼嘉隆率いる織田水軍はわずか6隻ではあるが大砲・長銃を備えた大型の鉄甲船を保有、その周りには、護衛のための小型船も当然ながら配備。

毛利水軍は数の上で圧倒的に有利で数隻の指揮艦を中心に組織的な攻撃をしかけ、序盤、織田水軍はやや押されぎみで戦いは進みます。

しかし、体勢を立て直し、秘密兵器である大砲・長銃を繰り出し織田水軍の反撃が始まります。敵指揮艦に狙いを定め次々に撃破。指揮を失った毛利水軍は各個に撃破され散り散りに逃げ始めます。

織田水軍の大勝利に終わり、以後大坂湾は完全に封鎖され本願寺への兵糧や武器の供給は途絶えることになります。