1578(天正6)年12月、摂津の荒木村重攻めに引き続き播磨・三木城の別所長治包囲戦の後方支援を終えた明智光秀は休む間もなく、本来の任務である丹波攻略を本格再開します。

別所長治・荒木村重の相次ぐ謀反により頓挫していた丹波平定戦は既に三年目を迎えていましたが依然、有力国人である黒井城の赤井氏や八上城の波多野氏が抵抗を続けていました。

黒井城の萩野(赤井)直正は、この年3月に既に病死していましたが、本来の当主である甥の赤井忠家は健在でした。しかし、実力者の直正の死でその勢力はかなり衰えている状況でした。

余談ですが荻野直正の二人目の正室(最初の正室とは死別)は、本能寺の変の黒幕説もある近衛前久の妹です。

12月中旬、このような状況でしたが、光秀はまず狙ったのは、八上城の波多野秀治・秀尚兄弟でした。光秀は、播磨から取って返すとすかさず八上城を包囲。

明智軍のみでありながら堀や柵を幾重にも張り巡らせ八上城を完全に孤立させ、以後半年に渡り包囲することになります。

21日、荒木村重攻めのため古池田(大阪市池田市)に本陣を構えていた信長は、京都に帰陣。25日には安土へ帰国します。