天正7(1579)年7月上旬、信長は、徳川家康の長男・松平(岡崎)信康が武田家に内通しているとのうわさの真偽を確かめるべく、家康に説明を求めます。
家康は、重臣・酒井忠次を信長のもとへ派遣します。

7月16日、酒井忠次は、長篠城主・奥平信昌を伴い、安土の信長のもとを訪れ、馬を献上します。

信長は、早速、娘で信康の正室となっている五徳(徳姫)から送られた12ヶ条の密書について忠次に問いただします。
忠次は12ヶ条のうち10ヶ条を否定できず、返答に窮します。

これにより信康の武田家内通の噂は真実と判断した信長は、家康に信康を厳罰に処すよう命じます。この時具体的に殺すよう命じたとも言われています。

この事件は、信長が嫡子・信忠より、信康が優秀であったため、後々脅威になるのを恐れ信康殺害を企てたという説もありますが、この時期、西に毛利・本願寺・東に上杉や武田が依然健在、さらに荒木村重や別所長治の件も解決していない状況。このような謀略で徳川を敵に回す可能性のある危険な賭けに出るとは考えにくいように思います。

信康は勇猛でありながら日頃の行状が悪かったという話もあり、徳川家内部でも信康が家康の跡を継ぐことに危惧を抱く勢力もあったようです。

『信長公記』の原本である『安土日記』と家康の家臣松平家忠の『家忠日記』に似たような記事があり、信康が幽閉される直前、信康が謀反を企てているとの噂が流れ、8月3日、家康は、武装した兵を率い浜松から岡崎城へ向かい信康と対面。

4日、父子はなんらかを話し合い、信康は大浜に退去。
5日、松平家忠は岡崎に到着すると家康から大浜に近い西尾に兵を配備。その後三日間に渡り信康を監視します。

9日、信康は遠江に移されます。
10日、家康は、一族や家臣に信康と連絡することを一切禁じ、起請文を書かせ“信康派”の勢力拡大を事前に封じます。

家康の浜松派と信康の岡崎派の内部権力闘争が、信康事件の根幹にあったとの見方が近年有力視されているようです。 

8月29日、家康は家臣に命じ、浜松の近く冨塚で正室・築山殿を殺害。

9月15日、遠江・二股城(静岡県天竜市)に幽閉していた、長男信康に切腹を命じます。信康は最後まで疑惑を否定しながら自刃して果てます。享年21歳。これにより徳川家分裂の危機は回避されることになります。

この信康の切腹に際し、介錯役を服部半蔵が担うことになりましたが、手が震え刀を取れなかったとも伝わります。

そして家康自身、後に信康を死に追いやったことを後悔したとも言われています。

※文中、松平“家忠”がすべて“忠家”になっていました。申し訳ありません。訂正しました(2008.1.4)