いよいよ今回の名古屋遠征のご報告最終回です。二日目の雨の中の出陣。雨のため片手での撮影にピンボケの山。うまく撮れていると思いきや雨粒が写り込んだりして散々でしたが、まあ見てやってください。
まずは、『熱田神宮』です。信長公が桶狭間の合戦の折、戦勝を祈願したことで有名ですね。この熱田神宮から煙の上がる鷲津・丸根の両砦が見えたといわれています。
祈願の最中、神殿の奥から甲冑の音が聞こえ、白鷺飛び立ったとも伝わっています。
信長の演出とも言われていますが、織田軍の士気は大いに上がったことでしょう。
桶狭間の合戦に勝利したお礼に信長が寄進した『信長塀』。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大棟塀と並び日本三大塀と呼ばれているそうです。
推定樹齢1000年といわれる『大楠』です。桶狭間の合戦が、およそ450年前。ということは、きっとこの楠を信長公も見たことでしょう。この楠は弘法大師が植えたと伝わっているそうです。
説明無用の『名古屋城天守閣』ですね。
前回、3、4年前に来たときは時間がなく堀の外から眺めるだけでしたが、ようやく入城叶いました。昭和の再建ながら立派でした。外見は・・・内部はまあなんとも・・
この天守閣の前に「本丸御殿」がありましたが現在、再建のための募金を募っており僅かではありますが寄付してきました。いつの日かこの場所に本丸御殿が再建されればと思います。
天守閣内部に展示してあった焼失前の『名古屋城天守閣』です。第二次大戦の空襲で焼失してしまったのはホントに惜しい思いです。
全国には同じように焼失した城が多くありますが、この名古屋城も焼失しなければ国宝になったのは間違いないでしょう。
ちなみに天守閣の手前に写っているのが「本丸御殿」です。
焼失前の天守閣に輝いていた『金鯱』。なんども盗難にあったため、こんな金網の中に閉じ込められていたんですね。この姿はちょっと・・・しかし、どうやってこの鯱を盗んだのでしょう?
現代の『金鯱』。昭和34年に“誕生”した二代目ですが、現代はしてないんですが盗難の心配は・・きっとないですね。
現在の『名古屋城二之丸』付近は、信長公が誕生(異説あり)、そして幼くして城主を務めた那古野城がかつて建っていました。やはりこちらの方が信長ファンとしては気になりますね〜。
現在は庭園となっています。
こちらは『西北隅櫓』。別名『清洲櫓』。
!?と思われる方も多いかもしれませんが信長ファンとしては気になる名前ですね。実はこの櫓、清洲城の建材を用いて建てられたと伝わっています。現在、清洲城は、城跡の近くに模擬天守が建てられていますが、この櫓のほうが、当時の清洲城の姿に近いのかもしれません??
同じく、『西北隅櫓』ですが、堀の方から見たところです。堀沿いに藤棚が続いていてきれいでいたが雨の為、撮影は断念。お見せできず残念です。
徳川期の名古屋城は、慶長14(1609)年に築城されましたが、その中心となったのが加藤清正をはじめ福島正則や前田利光ら豊臣系大名20名でした。豊臣系大名の財力を削ぐ狙いもあったのでしょう。
清正は巨石を運ぶとき、石の上に乗り、石を引く者たちに気合を入れたようです。
その身長は190cm(逆に160cm説もありますが)の大男。石を引く人たちの不満の声が聞こえるような・・・(「重いから降りろよ〜」なんて・・・笑)
『清正石』と名づけられている巨石です。周りの石と比べてもその大きさがわかると思います。この上に清正は立っていたのでしょうか?しかし、説明を記した立て札には「この付近は黒田長政の持ち場だったので清正石というのは単なる伝説であろう」となっています。
さてその真偽やいかに?!
以上で、今回の名古屋旅行でのご報告終了です。
さて次回はいつどこに行くのやら?いずれにしても天気がいいことを祈るばかりです・・・
まずは、『熱田神宮』です。信長公が桶狭間の合戦の折、戦勝を祈願したことで有名ですね。この熱田神宮から煙の上がる鷲津・丸根の両砦が見えたといわれています。
祈願の最中、神殿の奥から甲冑の音が聞こえ、白鷺飛び立ったとも伝わっています。
信長の演出とも言われていますが、織田軍の士気は大いに上がったことでしょう。
桶狭間の合戦に勝利したお礼に信長が寄進した『信長塀』。三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大棟塀と並び日本三大塀と呼ばれているそうです。
推定樹齢1000年といわれる『大楠』です。桶狭間の合戦が、およそ450年前。ということは、きっとこの楠を信長公も見たことでしょう。この楠は弘法大師が植えたと伝わっているそうです。
説明無用の『名古屋城天守閣』ですね。
前回、3、4年前に来たときは時間がなく堀の外から眺めるだけでしたが、ようやく入城叶いました。昭和の再建ながら立派でした。外見は・・・内部はまあなんとも・・
この天守閣の前に「本丸御殿」がありましたが現在、再建のための募金を募っており僅かではありますが寄付してきました。いつの日かこの場所に本丸御殿が再建されればと思います。
天守閣内部に展示してあった焼失前の『名古屋城天守閣』です。第二次大戦の空襲で焼失してしまったのはホントに惜しい思いです。
全国には同じように焼失した城が多くありますが、この名古屋城も焼失しなければ国宝になったのは間違いないでしょう。
ちなみに天守閣の手前に写っているのが「本丸御殿」です。
焼失前の天守閣に輝いていた『金鯱』。なんども盗難にあったため、こんな金網の中に閉じ込められていたんですね。この姿はちょっと・・・しかし、どうやってこの鯱を盗んだのでしょう?
現代の『金鯱』。昭和34年に“誕生”した二代目ですが、現代はしてないんですが盗難の心配は・・きっとないですね。
現在の『名古屋城二之丸』付近は、信長公が誕生(異説あり)、そして幼くして城主を務めた那古野城がかつて建っていました。やはりこちらの方が信長ファンとしては気になりますね〜。
現在は庭園となっています。
こちらは『西北隅櫓』。別名『清洲櫓』。
!?と思われる方も多いかもしれませんが信長ファンとしては気になる名前ですね。実はこの櫓、清洲城の建材を用いて建てられたと伝わっています。現在、清洲城は、城跡の近くに模擬天守が建てられていますが、この櫓のほうが、当時の清洲城の姿に近いのかもしれません??
同じく、『西北隅櫓』ですが、堀の方から見たところです。堀沿いに藤棚が続いていてきれいでいたが雨の為、撮影は断念。お見せできず残念です。
徳川期の名古屋城は、慶長14(1609)年に築城されましたが、その中心となったのが加藤清正をはじめ福島正則や前田利光ら豊臣系大名20名でした。豊臣系大名の財力を削ぐ狙いもあったのでしょう。
清正は巨石を運ぶとき、石の上に乗り、石を引く者たちに気合を入れたようです。
その身長は190cm(逆に160cm説もありますが)の大男。石を引く人たちの不満の声が聞こえるような・・・(「重いから降りろよ〜」なんて・・・笑)
『清正石』と名づけられている巨石です。周りの石と比べてもその大きさがわかると思います。この上に清正は立っていたのでしょうか?しかし、説明を記した立て札には「この付近は黒田長政の持ち場だったので清正石というのは単なる伝説であろう」となっています。
さてその真偽やいかに?!
以上で、今回の名古屋旅行でのご報告終了です。
さて次回はいつどこに行くのやら?いずれにしても天気がいいことを祈るばかりです・・・
いつも清々しい気に癒されます。
私も名古屋城より那古野城の方が、断然気になります。
本能寺信長まつりの信長公役が変更になったそうです。
信長公役は浜田泰介画伯から映画プロデューサーの浜田美呂さんに変更になったようです。
浜田泰介画伯にお会いしたかっただけにとても残念です。