天正7(1579)年12初旬(11月末下旬?)、有岡城内で事件が起きます。
城内の人質である荒木方の妻子らを警護するため残っていた池田和泉守が、子供の身を案じる句を残し、火縄銃で頭を撃ち抜き自害します。

荒木村重を説得するために尼崎城に向かった荒木久左衛門らでしたが、村重は尼崎・花隈両城の明け渡しを拒否。荒木久左衛門らは、説得を断念しそのまま有岡城に戻らず出奔してしまいます。(有岡城に戻り人質らと運命を共にしたともいわれています)

激怒した信長は、有岡城に残された荒木方の将兵の妻子らの処刑を命じます。

12月12日、荒木村重の妻子ら30人余りは、京都に護送され妙顕寺の牢に閉じ込められます。護送された人質らは涙ながらに親兄弟に最後の手紙を書き残したそうです。

人質警護のために残っていた荒木方の将である泊々部某、村重の弟・吹田某および荒木久左衛門の息子・自念の三人は、京都所司代・村井貞勝の役所の牢に投獄。

荒木方の上級武士の妻子らは滝川一益・蜂屋頼隆・丹羽長秀に預けられ磔を命じます。

13日、尼崎近くの七松で、122名の人質が磔にされます。子供のいる女性は子を抱きながら磔にされたそうです。妻子らは、火縄銃で撃たれたり、槍や薙刀で刺し殺されます。

中級武士の妻子388人及びその警護や世話などを任されていた若い男子ら124人の合わせて500余名は、矢部家定が監視のもと4軒の家に押し込められ、焼き殺されます。
熱さにもがき苦しみ泣き叫ぶ声が響き渡ったそうです。

14日、信長は山崎から京都妙覚寺に入り、村重の妻子・兄弟の処刑を不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近の越前衆5名に命じます。

16日、村重の一族は、車一台に二人ずつ乗せられ、京都市中を引き回されます。
この時引き回された30余名は、村重の弟や妻子、泊々部某(50代)・吹田某(21歳)・荒木久左衛門の息子・自念(14歳)、中には村重の娘で15歳の妊娠している少女も含まれ、ほとんどが10代〜20代の若者でした。
さらに幼子も含まれ、こちらは3台の車に乳母7・8名と共に乗せられていました。

村重の妻子らは、死を目前にしても取り乱すことなく、身なりを整え切られます。
侍女らは泣き叫びながら切られたようですが、14歳の自念と8歳の伊丹安大夫の息子も「最後の場所はここか」と言い残し、首を差し出し切られたそうです。
これを見ていた京の人々はさすがは一流の武士の子と褒め称えたそうです。

処刑された村重の一族らは、近隣の寺々の僧が引き取り弔いをします。

この残酷な処刑は、村重への見せしめもありますが、三木城の別所氏や石山本願寺の顕如へ対する警告でもあったものと思われます。

そして信長の狙い通り、13日の処刑以降、花隈城や尼崎城さらに石山本願寺に援軍として参陣していた毛利軍の乃美宗勝や荒木元清は毛利本国に引き上げてしまい、尼崎城にいた毛利軍の桂元将は石山本願寺に退去後、帰国を願い出るという始末。
本願寺の下間頼廉は桂元将に宛、帰国を思いとどまるよう書状を送ったそうです。
このように本願寺・毛利軍は完全に動揺していました。


信長の処刑行為は、残酷に写るかもしれませんが、これが戦国の世の定めであるとすれば、本当に憎むべきは妻子を見捨てた荒木村重や出奔した(とされる)荒木久左衛門らなのかもしれません。