織田秀信
天正8(1580)年、この年何月かは不明ですが、信忠に長男・三法師が誕生します。信長にとって初の男子の孫でした。
後に秀吉の「秀」の一字を与えられ秀信と名乗ることになります。

ちなみに信忠は正室になるはずだった武田信玄の娘・松との婚約が両家の関係悪化から破談し、その後正室を迎えた様子はなく、“この時点では”三法師が嫡孫だったと考えていいように思います。

母は、信忠の側室・塩川長満(国満か?)の娘という説が有力と思われますが、他に森可成の娘ともいわれ、また意外な説としては、武田信玄の娘で信忠の婚約者であった松ともいわれているようです。(ウィキペディア参照)

塩川(塩河)長満と国満はいろいろな文献で混同されることが多いようで、親子関係なのか親戚関係なのか不明ですが、同一人物という見方もあるようです。
ちなみに国満は荒木村重の娘婿になっています。村重と信長はほぼ同年(1才差)なので、年齢的に信忠の側室となった女性は村重の娘を母とする子ではないと思いますが・・・?

三法師は、2年後の天正10年、本能寺の変により信長・信忠が死去したため信雄と信孝が家督相続を争ったいわゆる清洲会議の際、秀吉に担がれわずか3歳で織田家を継ぐことになり、悲運の生涯を送ることになります。