天正8(1580)年1月下旬?、大坂石山本願寺の周辺でひとつの噂が流れます。
「三月初めに信長が当表(石山本願寺)に執り詰める(攻め寄せる)」

前年12月荒木氏の守備する有岡城(兵庫県伊丹市)が落城し、それに続き別所氏の居城三木城(兵庫県三木市)も落城したため完全に孤立した石山本願寺にとってこの噂は現実味のあるものとして捉えられたことと思います。

これは石山本願寺を窮地に追い込み和睦交渉を優位に展開させるための信長の策略であったとも言われています。

2月21日、信長は京・妙覚寺に入ります。鷹狩りや本能寺の普請を村井貞勝に命じるなどして数日過ごします。

27日、山崎(京都府・大山崎町)に出陣し、荒木方が抵抗を続ける花隈城に対する砦を築くよう、甥の津田信澄や塩河(塩川)国満・丹羽長秀に命じ、その砦を池田恒興・元助・輝政父子に守備させることにします。

28日、山崎に滞在する信長のもとに根来寺(和歌山県岩出市)の岩室坊(子院のひとつ)が挨拶に訪れ、信長は馬などを与えます。

3月1日、朝廷は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺の顕如のもとへ派遣。信長との和睦を勧告します。
信長はこの勅使の補佐として松井友閑と佐久間信盛を同行させます。

3日から7日にかけ信長は前年に落とした有岡城を視察と称し、伊丹周辺に滞在。この間、萱振(カヤフリ:河内)にある本願寺方の寺内町を焼き払います。
これは勅使の派遣とほぼ時を同じくしており、石山本願寺に「和睦を受け入れなければ本当に攻めるぞ」という無言の圧力を加える目的があったものと思われます。

本願寺の顕如は、石山の地を退去するという条件を含めた数々の難条件を受け入れることに難色を示し、信長に再考を願いますが信長はこれを拒絶。和睦交渉の打ち切りまで打ち出し強硬姿勢を崩しませんでした。
顕如の決断のときが迫ります。