天正8(1580)年3月17日、信長は、和睦条件を記したこの日付の誓詞・起請文を本願寺に送ります。

『本願寺文書』に記された条件を要約すると、
・すべての門徒を許す
・大坂は退去すること
・恭順の意を示せば加賀の二郡は本願寺に返還する
・退去の期限は7月の盆前
・花隈(花熊)、尼崎は大坂退去の時明け渡すこと
(※追記しました)
というような内容でした。
信長は、起請文の最後に(めったに押さない)血判まで押し、本願寺との長期にわたる戦いを終結させようとしていました。

本願寺内部では、この和睦条件の受け入れをめぐり、宗主・顕如とその妻で本願寺内で強い影響力を持っていたといわれる如春尼(にょしゅんに)を筆頭とする“和睦受け入れ派”と顕如の長男・教如を筆頭とする“徹底交戦派”が対立。反対派には寺内町衆や雑賀衆が加わっていました。

実は前年12月に正親町天皇より女房奉書(天皇の意を受けた女官の奉書)が本願寺に手渡されており、信長との和睦を命じられていました。これを機に翌1月、顕如は家老の下間頼廉らを使者として毛利氏に派遣。本願寺を毛利領内に移す計画をしますが断られていて、大坂を退去してどこに本願寺を移すかも問題になっていました。

さらに本願寺内部では信長の“騙まし討ち”を恐れていました。
信長は近衛前久にも書状を送り、本願寺の疑念を晴らす努力をし、さらにこの和睦は天皇の意向であることを強調します。

この3月、村重は長男・村次と花隈城の荒木元清らと共に毛利領に逃げ込んだといわれています。しかし、主を失った花隈城(神戸市中央区)はなおも抵抗を続けます。
※3月、尼崎城落城としていましたが、誤りでした申し訳ありません。また、村重や村次らはこの時点でまだ毛利領へ脱出はしていないという説もあります。


閏3月2日、包囲していた花隈城から荒木方の兵が出陣してきます。この戦いで池田元助・幸親(後の輝政)兄弟は15〜6歳でありながら大活躍したようです。

信長は再び本願寺に対し、この日付の朱印状をしたため、誓紙に書いたことに偽りがないことを伝えます。

閏3月5日、顕如は下間三家老を説得し、勅使に対し和睦受け入れを伝えます。
強硬派を無視した決断でした。

6日、信長は誓紙作成の検使として青山虎を天王寺に派遣。

7日、誓紙に署名した顕如・如春尼(北の方)・下間仲之(頼照の子)・下間頼廉・下間頼龍にそれぞれ黄金15〜30枚を与えます。


※閏3月6日に「諸国の織田軍に本願寺勢との停戦を命じます。」と書いていましたが、これは閏3月11日の話でした。お詫びして訂正させていただきます。