天正8(1580)年11月、石山本願寺で最後の抵抗を続けていた教如が大坂から退去してすでに3ヶ月が経過していたこの時期、依然加賀の本願寺門徒は、織田軍に抵抗する姿勢を崩していませんでした。

加賀国は1488(長享2)年に一向一揆が守護・冨樫政親を自刃させ、加賀一国を手に入れその後100年近くに渡り“門徒のもちたる国”として独自の繁栄を続けていた特殊地域でした。その為、顕如・教如父子が信長との和睦を受け入れたにもかかわらず、独自の道を歩んでいたのかもしれません。

信長は本願寺との和睦の条件のひとつに『一、大坂退去後、加賀の本願寺領は返還する』の一文を掲げていましたが、加賀門徒の織田家への敵対姿勢は、織田軍の加賀侵攻の口実になってしまったのかもしれません。

11月17日、北陸方面攻略を任されている柴田勝家は加賀門徒の指導者たちを一斉に捕らえるという強硬手段に出ます。

勝家は謀略を用い、門徒の指導者である若林長門・雅楽助・甚八郎父子、鈴木義明・右京進・次郎衛門・太郎父子やその他岸田常徳・窪田経忠ら総勢19人を捕らえことごとく処刑。その首を安土の信長のもとへ届けます。
信長は首を松原町(安土城下町・現在の安土駅北側)で晒すよう命じます。

指導者層を失った門徒たちに、もはや織田家に敵対する能力はなく100年近くに渡り門徒が支配した加賀は、織田家により平定され、信長も大いに喜んだそうです。