天正9(1581)年1月、信長48歳。この年の正月も信長家臣団は各地で交戦状態だったため信長は年頭の出仕を免除します。そんな中、馬廻り衆だけには接見するつもりだったようですが雨の為、中止となりました。

元日のこの日、信長は15日に行われる『左義長(さぎちょう)』の準備のため菅谷長頼・堀秀政・長谷川秀一を呼び出し、安土城下町に馬場を築くことを命じます。早速この日から工事が始められます。馬場は、安土山の西、琵琶湖(西の湖)近くに南北数百メートルの直線道路が築かれたようで現在も馬場(ばんば)の地名が残っています。

2日、安土城下町の最南端(?)に位置する沙々木神社で能が演じられます。これは信長が鷹狩りで獲った雁や鶴などを町民たちに下賜するということで、その感謝の意味をこめて行われたようです。

3日、前年10月より徳川軍が包囲していた武田方の高天神城(城主・岡部元信、副将・横田尹松)を救援するため武田勝頼が出陣したという報告がもたらされます。織田信忠は、早速岐阜城を出立。尾張・清洲城に入り、武田軍の動きを警戒します。

4日、信長は水野直盛・忠重と大野衆(信長甥・佐治一成一族?)にも出陣を命じ、高天神城の西に築かれた徳川方の横須賀城(静岡県小笠郡大須賀町・松尾町)を守備させます。

武田勝頼の来援に備えていた織田・徳川連合軍でしたが、勝頼自身は、この時期、織田・徳川と連携して動いていた北条軍と三島(静岡県三島市)で対峙中で、高天神城の救援に向かうことは出来なかったようです。高天神城内の兵糧は五ヶ月に渡る籠城で尽きようとしていました。

勝頼は亡き父・信玄が落とせなかった高天神城を落城させたことで内外にその実力を示していましたが、その城の落城は目前に迫っていました。