天正9(1581)年1月8日、信長は左義長に関する指示をだします。
馬廻り衆に対しては、爆竹を用意し、頭巾装束に趣向を凝らし参加するよう命じます。

近江衆も爆竹を用意し参加するよう命じられ、北方東一番として平野定久・多賀常則・後藤高治・蒲生氏郷・京極高次・山崎秀家・山岡隆景小川祐忠が出場。
南方として、山岡景佐・池田秀雄・弓徳左近兵衛・永田正貞・阿閉貞征・進藤賢盛が出場することになります。

1月15日、祭りの当日、まず小姓衆が先払い(人払い)として馬場へ入場。信長がそれに続いて入場してきます。このときの信長の衣装は、黒い南蛮のフェルト帽(南蛮笠)をかぶり、描き眉の化粧に、赤い“ほうこう”(不明。面頬:ほおあてのような顔を隠す織物のこと?)を着け、唐錦の側次(袖のない法衣風の能装束)、さらに虎の皮で出来た行縢(ムカバキ:腰から足首位を覆う巻きスカートというかエプロン風のもの)という姿で、葦毛の馬に乗っての登場。

その後ろを公家の近衛前久と伊勢貞景、さらに織田一門が美しい頭巾装束でつづきました。

この行進が終わった後、今度は10頭・20頭の馬を一組とし馬の後ろに爆竹を点火し早駆けさせ、町へ乗り出し馬場へ戻ってくるという趣向を凝らし、見物人たちを感嘆させます。

この祭りの評判は、京の正親町天皇の耳にも届いたようで、京都でもぜひやって欲しいという要望が朝廷より寄せられます。

1月23日、信長は『馬揃え』という形で、京で開催すること決め、奉行に明智光秀を任命。領国の諸将に出来るだけ美しく着飾って参加するよう命じます。
光秀は、さっそく内裏の東側に馬揃えの会場となる馬場の設営を始めることになります。


さて、今回取り上げた『左義長』ですが、どんど焼きやサエノカミなど地域によっていろいろ呼び名が違うようですが、現在も全国各地で続いている祭り。
毎年、旧正月の14日夜や15日朝に行われることが多いようで正月飾りを集めて焼き、一年の無病息災を願う目的があるようです。

ちなみに安土城下町は安土城廃城後、豊臣秀次が八幡山城を築いたのにともない、近江八幡に移されているため、現在、近江八幡で行われる左義長祭りは、安土で行われた左義長がルーツとなっているようです。ただし時期は、毎年3月中旬の土・日に行われているようです。

3月に行われるようになったのは、近江八幡には、すでに1000年以上の歴史を持つといわれる勇壮な祭り「日牟礼八幡宮の祭礼」が4月に行われており、安土から移った人々はこれに対抗するため3月に行うようになったという説があるようです。