天正9(1581)年1月下旬から2月中旬にかけ、馬揃えの奉行を命じられた明智光秀は、上京の東に馬場を構築。馬場は南北に八町(約874m)毛氈で包んだ2.4mの柱で柵を作り、さらに急造の宮殿を建てます。この宮殿は急造にもかかわらず金銀の装飾を施していました。

2月19日、織田信忠・信雄兄弟が上洛し、二条・妙覚寺に入ります。翌日には信長も上洛し、本能寺に宿泊します。

23日、宣教師ヴァリニャーノが黒人男性ヤスケを伴い信長に謁見します。

24日、越前から柴田勝家らが馬揃えに参加するため上洛し、信長に珍品を献上します。

28日、馬揃え当日。仮宮殿で天皇や公卿らが見物する中、畿内や近隣諸国から集まった大名や諸将が馬揃えに参加。参加者すべてが我負けじと金襴豪華な衣装で参加したようです。

馬場への入場の一番手には、丹羽長秀。続いて蜂屋頼隆・明智光秀・村井貞成がそれぞれ国衆を従えて入場。

その後ろを織田の一門衆(連枝衆)が続きます。一番手は織田信忠・騎馬80騎。つづいて信雄・騎馬30騎。信長の弟・信包・騎馬10騎。信孝・騎馬10騎。甥の信澄・騎馬10騎。その後ろを長益(後の有楽斎)・長利・勘七郎・信照・信氏・周防・孫十郎。

織田一門に続き近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣ら公家衆。細川昭元・細川藤賢ら旧幕臣衆。この旧幕臣衆の中には武田信玄に敗れ信濃を追われていた元信濃守護・小笠原長時も加わっていました。

この後ろを信長の馬廻り衆や小姓衆そして柴田勝家率いる越前衆柴田勝豊・柴田三左衛門・不破光治・前田利家・金森長近・原政茂。さらに弓衆100人が続きます。

この後を信長本体が続きます。
信長自身は辰の刻(午前8時頃)に下京の本能寺から室町通を北進し、一条を曲がり馬場に入場。
左義長のとき同様、描き眉の化粧にこのときは金紗の“ほうこう”を着け、唐冠の頭巾の後ろに花を立て、紅梅文様の白い段替わりの小袖、蜀江錦の小袖を着て、肩衣には紅色の緞子。それぞれ桐唐草文様が施され、天皇から頂いた牡丹の造花を腰に挿し、白熊(ヤクの尾)の腰蓑、金銀飾りの太刀・脇差など派手な出で立ちでした。


行進は、未の刻(午後2時頃)まで続き、この間信長は何度か馬を乗り換え、関東から出仕していた馬術家の矢代勝介に馬術を披露させるなど、行進以外にもいろいろな趣向が凝らされたようで最終的に信長が馬場を退去し本能寺に帰還したのは夕刻だったようです。

行進の途中で、天皇から12人の勅使が信長のもとへ派遣され、感激の言葉を伝えたそうです。

3月5日、朝廷からの要望で再び、馬揃えが行われますがこのときはやや規模を縮小し、名馬500騎を選び、前回の金襴豪華な姿とは一転して、今度は騎乗者全員が黒い笠に“ほうこう”を着け、黒い胴服に裁付け袴、腰蓑姿だったそうです。

『信長公記』には記されていませんが、2月の馬揃えは宣教師たちも招かれ見物しており、フロイスの記録によれば、宣教師が信長に贈った金装飾を施した濃紅色のビロードの椅子を信長は気に入り、行進の時、信長の前を4人の男が肩の高さまでその椅子を持ち上げて進み、さらに信長は馬から降り一度その椅子に座って見せたそうです。

※『信長公記』の著者・太田牛一は、このパレードについて衣装や馬の種類・参加者などかなり詳細にその著書に記していますが、長文になるため今回は省略しました。
興味のある方は『信長公記』をご覧ください。

余談ですが、この馬揃えで、山内一豊とその妻見性院(千代)の「十両の馬」の逸話が繰り広げられることになります。