天正8(1580)年9月に城主・山名豊国が出奔し織田方に服属していた因幡・鳥取城は、天正9(1581)年3月18日、毛利家からあらたな城主を迎えていました。城主になったのは、毛利元就の次男が継いだ吉川元春の支族・吉川経安の嫡男・経家

この鳥取城は、険しい山城のため、中国方面を任されていた秀吉も容易に攻撃することは出来ませんでした。

6月25日、秀吉は2万の軍勢を率い出陣。毛利本隊の攻撃に備え鳥取城近郊に出城を築いた上で、鳥取城とその支城を堀や土塁・柵などで二重三重に巡らし包囲します。

秀吉は包囲網内に町屋のような陣屋を作り、海上も封鎖し兵糧搬入を完全に阻止し長期戦に備えます。

吉川経家は、この堅固な山城に籠城し雪の季節を待てば秀吉は包囲を解いて退却するものと考え、秀吉軍の包囲前より兵糧を集め、籠城に備えていました。
しかし、思うように兵糧を集めることが出来ないまま秀吉軍に包囲されてしまいます。

秀吉は、早い段階から鳥取城の兵糧攻めを計画し、包囲以前に周辺の農民が鳥取城に逃げ込むように嫌がらせ等の行為をし城内の人数を増やし兵糧の消費を多くし、時価の数倍で米を買い取るなどし、鳥取城へ兵糧が流れることを阻止していました。このため経家は兵糧を集められませんでした。
そして、収穫前の時期を狙い秀吉は一気に城を包囲します。

このようにまともな籠城準備を出来ないまま、鳥取城は包囲され、後に『鳥取城の干し殺し』(飢え殺しとも)と呼ばれる凄惨な結末を迎えることになります。