天正9(1581)年8月、毛利本隊が鳥取城救援のため出陣するという噂が流れます。鳥取城はこの年6月から羽柴秀吉軍により包囲され危機に陥っていました。

8月13日、信長は毛利軍の動きに備え配下の武将に鳥取出陣の準備を命じます。
この命を受け、丹後の細川藤孝、丹波の明智光秀、池田恒興を大将とした摂津衆(高山重友・中川清秀・安部二右衛門・塩河吉大夫)らは出陣準備を整えます。
光秀と藤孝は共に水軍も編成し、秀吉軍に供給する兵糧を大舟に積み込み鳥取川に停泊させます。

信長は、毛利本隊が出陣してくれば決戦を挑むつもりだったようで、諸将を前に「毛利軍が出陣してきたら、自ら出陣し、西国勢を討ち果たし日本全国残る所なく信長支配下に置く決意である」と述べたそうです。

14日、信長は高山重友を使者とし秀吉に馬三頭を贈ると共に重友に鳥取城周辺の状況を詳細に調べるよう命じます。

23日、噂とは異なり、毛利本隊ではなく鳥取城救援のための兵糧を大量に積んだ毛利水軍が鳥取海上に現れます。
しかし、これに備えていた秀吉配下の水軍や秀吉軍に兵糧を運び込んだばかりの細川配下の松井康之が指揮する水軍が毛利水軍と激突。

毛利水軍は、鳥取城に兵糧を送り届けることが出来ずに織田水軍に大敗。
救援物資を積み込んだ65隻の船は撃沈されます。


この大敗により鳥取城に籠城する吉川経家や城兵らは絶望的な状況となります。