天正9(1581)年9月6日、信雄は御代河原(ミダイガワラ:伊賀町)に本陣を構え、甲賀口の滝川一益や丹羽長秀、信楽口の堀秀政らも近くに布陣します。

10日、織田軍は攻撃を開始。佐那具嶺おろし(さなぐ城下?)や寺院・一之宮(敢国神社・上野市)の堂坊など一帯を焼き払います。佐那具城の伊賀衆は城外に撃って出ますが、滝川・堀両隊に返り討ちされ十数人が討ち死にし退散。織田軍も陣へ引き上げます。

11日、佐那具城を総攻撃する手はずになっていましたが、城兵は夜中に城を捨て退去してしまったため、信雄の軍勢が入城し佐那具城を占拠

各方面から攻め入った軍勢が合流し軍議が開かれます。この席で改めて担当地域を決めそれぞれ出陣します。

阿我郡(那賀郡)には信雄軍・山田郡には織田信包軍・名張郡には丹羽や蒲生らの軍・綾郡には滝川や堀らの軍が攻め入ります。

丹羽らの軍は吉原城主や西田原の城主らを討ち取り、滝川らの軍は、河合城主田屋甚之丞(最初に寝返った田屋氏とは別人)や壬生野城主らを討ち取り、さらに木興城で抵抗していた上服部党や下服部党を壊滅させます。

大和国境近くの春日山(奈良県・山添村)にも多くの75人の指導者かくを含めた多くの老若男女が逃げ込みますが、筒井らの軍によりことごとく討ち取られます。

この時の伊賀攻めで伊賀忍者の上忍であった百地丹波も柏原砦(名張市)で討ち死にしたといわれています。

こうして伊賀国内で大量の殺戮が繰り広げられ、伊賀は平定され伊賀三郡は信雄に、残りの一郡は信包に与えられます。