天正9(1581)年11月、武田勝頼は人質としていた織田勝長を信長のもとへ送り返します。
この勝長は、信長の五男(四男説もあり)で幼名を御坊丸。長じて勝長さらに織田(津田)源三郎信房と名乗っていました。

元亀3(1572)年、織田領の岩村城が武田信玄の家臣・秋山信友の攻撃を受けている最中、城主の遠山景任が病没。景任の妻は信長の叔母で、跡継ぎがなかったため信長は幼少の御坊丸を養子として送っていました。しかし、幼かったため岩村城の城代は信長の叔母・おつやが務めていました。

しかし、元亀3(1572)年11月14日、秋山信友の攻撃に抗し切れず、岩村城は落城。おつやは、信友の妻となり、御坊丸は人質として甲斐の信玄のもとへ送られてしまいます。

翌年には信玄が死去し、跡を継いだ武田勝頼のもとで御坊丸は生活することになります。1575(天正3)年11月には、岩村城は織田家が奪還に成功し、秋山信人もは処刑されます。

織田家と武田家の関係が悪化する状況の中、御坊丸は殺されることなく育ち、約9年に及ぶ人質生活から開放され、信長のもとへ向かいます。
この時期、武田家は織田・徳川との戦いで劣勢に追い込まれ滅亡の危機に瀕している状況であり、勝頼は御坊丸を織田家に送り返すことで、織田家との和睦を模索したのかもしれません。しかし、その願いはかないませんでしたが・・・

天正9(1581)年11月24日、御坊丸は安土の信長のもとへ挨拶に出向き再会を果たします。信長は、小袖や刀・鷹や馬など多くのものを御坊丸に贈り、犬山城の城主にすることを伝えます。信長は御坊丸の側近に対しても相応の品を与えています。

このとき御坊丸は元服し、勝長と名を改めたようですが、勝頼の“勝”の字の下に信長の“長”の字を使っていて不自然なため、武田家ですでに元服し勝長と名乗っており、織田家に復帰した際、源三郎信房と名乗ったのではないかという説もあるようで、個人的にはこちらの可能性が高いような気がします。

なお『信長公記』では人質として武田家に送られたのではなく、信玄が養子に欲しいということで武田家に送られたとされていますが、これは太田牛一が主家に遠慮してこのように書いたのかもしれません。

無事、信長との再会を果たした勝長でしたが、この後武田討伐に参戦し活躍しますが、本能寺の変で兄・信忠と運命を共にすることになる悲運の短い生涯でした。