天正9(1581)年11月、人質としていた織田勝長を送り返すことで、織田家との関係修復・和睦を模索した武田勝頼ですが、織田家から期待していた返答を得られず窮地に追い込まれてしまいます。

天正3(1575)年、勝頼は長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫し重臣の多くを失い武田家は弱体化し、天正9年3月、要所・高天神城が徳川家康の攻撃で落城したことにより防衛強化が迫られます。

そこで勝頼と従兄弟であり義兄の関係でもある穴山信君(梅雪)が甲斐国内に築城することを進言。
亡き父・信玄は『人は城、人は石垣、人は堀〜』を信条とし、甲斐自体も山に囲まれ天然の要害にもなっていたため国内に城を築きませんでしたが、すでに状況は危機的なものになっており勝頼は築城を決断します。

天正9(1581)年3月下旬?真田昌幸を普請奉行に任命し新府城(韮崎城:山梨県韮崎市)の築城をはじめます。この城は七里岩台地上にある平山城で、この地は信君の領地だったそうです。一説には、このときすでに信君は徳川家康に通じていたともいわれており、信君は、この城を自分の居城にしようと考えていたのかもしれません??

11月、織田家との和睦が不調に終わった勝頼は、織田・徳川との決戦に備えます。

12月24日、勝頼は織田・徳川連合軍が甲斐侵攻の時が間近に迫っていることを悟り躑躅ヶ崎館から未完成の新府城に慌しく移ります。

しかし、この時すでに武田家中に織田や徳川に内通している者がおり、内部崩壊が始まっていました。