天正9(1581)年12月、武田家中が織田・徳川の攻撃が近づき不安な年末を過ごしている頃、信長のいる安土はおおいに賑わっていました。

信長のもとへは一門衆や近隣の大名だけではなく、遠方の大名まで金銀や舶来物などの献上品を持って挨拶に訪れていました。

そんな中、鳥取城を攻略し淡路も平定してひと段落していた羽柴秀吉が久々に年末の挨拶のため播磨から安土やってきます。
このとき秀吉は、信長に200枚もの小袖を献上しますが、信長に対してだけではなく女房衆にも小袖を献上し家中の者を驚嘆させます。

12月22日、信長は、秀吉の因幡・鳥取城での活躍を褒め称え、感状と共に12種類もの茶道具を秀吉に与えます。
秀吉は、この褒美の品を携え播磨に再び向かいます。このとき秀吉の傍らには、信長の四男で秀吉の養子となっていた於次秀勝がいたのかもしれません?

この二日後、甲斐の武田勝頼は、躑躅ヶ崎館から新府城へ移ることになります。