宇喜多秀家
天正10(1582)年正月、佐久間信盛の死去の方を受けた信長のもとにあらたに配下の大名の死の報せがもたらされます。

その大名とは、斎藤道三や松永久秀とともに戦国の梟雄として恐れられた備前(岡山県)の大名・宇喜多直家。死因は病死だったようで、享年54歳。
直家は、天正7(1579)年頃、織田家に従属し秀吉の配下として中国方面で活躍していました。

21日、秀吉は、宇喜多家の家老を引き連れ安土の信長のもとへ挨拶のため訪れます。
直家の死はこの時報告されたようですが、実際に死んだのは前年末の頃だったようです。信長に対しては死去直後、報告されたと思われますが、毛利家と対陣中の上、直家の子・八郎が幼かったためか、直家の死は隠され天正10年1月9日に公にされたようです。

宇喜多家の家老は、信長に黄金100枚を献上し、11歳になる直家の遺児・八郎の家督相続を願い出ます。信長は、八郎の家督相続を認め、家老たちにはそれぞれ馬を与えます。

本能寺の変後の話になりますが、八郎は元服し家氏と名乗り、間もなく秀吉の猶子となり『秀』の一字を与えられ「秀家」と名乗ります。
天正17(1589)年頃(他説有り)、秀吉の養女となった前田利家の四女・豪姫と結婚し二男一女をもうけます。