天正10(1582)年1月25日、伊勢神宮(三重県伊勢市)の権禰宜(ごんねぎ:宮司の補佐的な役職)上部貞永が、堀秀政を通じ式年遷宮(しきねんせんぐう)を復活したいと願い出てきます。

式年遷宮とは、20年ごとに本殿などの神宮の建物を同じ形で造り替える儀式ですが、戦国の頃長らく途絶えていました。『信長公記』では、300年途絶えていたとされていますが、実際には内宮(皇大神宮:こうたいじんぐう)では120年、外宮(豊受大神宮:とようけだいじんぐう)は19年(これはきちんと行われていたということか?)だったようです。

信長が費用を尋ねると、上部は「1000貫あればあとは勧進(寄付)でなんとかなる」と答えますが、信長は、天正7年12月から8年8月に行われた石清水八幡宮修築の際、当初予想300貫が1000貫以上掛かってしまった経験から、神宮の造り替えも1000貫では無理と判断。「庶民に迷惑をかけてはならぬ」とし3000貫を寄進するよう命じた上、あとは必要に応じ寄進することを約束します。奉行に平井久右衛門を任命し、上部を補佐させることにします。

26日、信長は森長定(乱丸)を使者として岐阜城の織田信忠のもとへ派遣し、岐阜城の土蔵に保管されている銭の綴りなおし(銭の穴に縄を通して保管していたので、その縄を新しいものにすること)を命じます。さらに、伊勢神宮から申し出があれば銭を渡してやるよう支持します。

ちなみに、この時、岐阜城には16000貫が蓄えられていたそうです
現在の価値でいくらなんでしょう?次回調べてみます。