天正10(1582)年3月3日、高遠城を攻略した織田信忠は上諏訪方面に攻め入り各所を焼き払いながら武田勝頼の籠もる新府城を目指します。

この間、大島城を脱出し高島城に入場していた安中左近大夫は、ここでの防戦も不可能と判断し織田勝長に城を明け渡し退去。深志城の馬場昌房も降伏し、織田長益(有楽)に城を明け渡し退去。

勝頼は次々もたらされる敗報に重ね、信忠が新府城に迫っているとの報告を受けます。
武田家中は大混乱に陥り、勝頼は統率力を失っていました。従兄弟の武田信豊は、なぜか勝頼を守ることなく、一族の下曽根信恒(覚雲斎)が守る小諸城に退去。勝頼は、新府城の完成を見ることなく、この城を焼き払い退去することを決めます。

この時、真田昌幸と小山田信茂の双方から自分の城に来るよう誘いがあり、勝頼は側近の長坂長閑と跡部勝資と相談し、新参の真田氏よりも譜代の重臣である小山田信茂を信じた方が良いと判断し、小山田の居城・岩殿山城を目指すことを決めたという話もあるようです。

勝頼は裏切った家臣の人質を新府城に押し込めたまま火を掛け退去。
裏切った家臣の人質300人余を殺し、付き従った家臣の人質には金銭を渡し開放したという話もあるようです。

勝頼一行は、岩殿山城を目指しますが、この時勝頼に従ったのは、妻子や側室・一門衆を含め200人余り。馬に乗ったものは僅かに20人ほどだったそうです。

勝沼(東山梨郡勝沼町)から駒飼(東山梨郡大和村)を抜け、小山田信茂の居城・岩殿山城を目前に勝頼は最大の裏切り遭うことになります。