天正10(1582)年3月4日?、武田勝頼・信勝父子らは、小山田信茂の居城・岩殿山城を目前に思いがけない報せを受けます。信茂は、勝頼一行を迎え入れることが出来ないと伝えてきます。織田軍の圧倒的優勢な状況に織田家に降伏することを決めたようで、勝頼をだまし討ちにしなかったのがせめてもの救いだったように思います。信茂が裏切ったという報せを受けたとも言われていますが・・・

勝頼らは再び山中をさまよい、天目山の麓、田子(田野:東山梨郡大和村)の民家に入り臨時の柵を設け、陣を構えます。新府城を出た時500〜600人いた兵はこの時わずか41人になっていたそうです。

5日、遠く安土では信長がついに近隣の兵を率い武田討伐のため出陣。

6日、4日前に討ち取った仁科盛信の首が、この日信長のもとに届き実検を済ませると岐阜の長良川の河原に晒させます。

7日、一方、先発していた嫡男・織田信忠は甲府に入り陣を構え、武田家一門の捜索を命じ、武田信廉(逍遥軒:信玄の弟)や一条信龍(信玄の異母弟)・海野信親(信玄の次男・竜芳)・山県昌満(三郎兵衛昌景の子)らを捕らえ処刑。
武田家臣の多くが次々と織田家に服属を誓ってきます。

3月11日、信長は岩村に到着。同日、勝頼一行を捜索していた織田軍でしたが滝川一益隊が勝頼らの居場所を突き止め、滝川益重と篠岡平右衛門の隊が勝頼の陣を包囲。

勝頼は、命運尽きたことを悟り、陣の奥に入り妻・北条夫人(氏康の六女)に兄・氏政のもとへ落ち延びるよう進めますが夫人も運命を共にすることを決め、勝頼は夫人を含め付き従った女・子供を一人ずつ引き寄せ刺し殺し、自らも切腹して果てます。享年37歳。

陣の外では勝頼の自刃の時間を稼ごうと、残ったわずかな武士たちが、織田軍に戦いを挑み、その中でも若衆の土屋昌恒は弓矢を取り矢を射つくすまで奮戦し切腹または討ち死に。

勝頼の嫡男で家系図上、信長の孫(信長養女の子)でもある信勝も奮戦したようですが討ち死に、または自害だったとも伝わります。享年16歳。ここに大名家としての甲斐源氏武田の嫡流は滅びることになります。織田軍の侵攻からわずか1ヶ月余りのことでした。

信勝は、死の直前、秋山光次または土屋昌恒のもとで、先祖伝来の「盾無しの鎧」を身に着け元服式を行い、そのまま織田家と戦ったとも伝わっています。

天目山の戦いで討ち死にまたは自害した武田家の者、武士41人、夫人や子供ら50人だったそうです。

勝頼・信勝の首は滝川一益から信忠に届けられ実検を終えると、関可平次と桑原助六の二人に預けられ信長のもとへ送られます。