天正10(1582)年3月11日、武田勝頼は自刃して果てましたが、同じ日、越中・富山城で反信長の一揆が蜂起します。
富山城には、信長の配下となっていた神保長住が城主を務めていましたが、越中の国人・小島六郎左衛門職鎮と加老戸式部の二人が一揆を扇動し、神保長住を城の一角に監禁し、城を占拠します。これは勝頼(または武田家の何者か)が死の直前、越中の国人に宛て、「信長・信忠父子及び織田軍をことごとく討ち果たした」という“虚報”を届け、小島・加老戸らはこれを信じ蜂起したようです。勝頼の最後の計略でした。

しかし、柴田勝家・佐々成政・前田利家・不破直光ら北陸方面軍がすばやく富山城を包囲し、信長に報告。

13日、信長もこの日付の書状に「武田勝頼・信勝・信豊・小山田信茂らをはじめ武田家の重臣らは討ち果たし、甲斐・信濃・駿河は平定したので心配無用。一揆を殲滅せよ」といった内容を書き記し送っていました。ただ、この時点でまだ武田信豊や小山田信茂は健在だったので、信長もまた“虚報”を知らせていたことになりますね。

この日、信長は美濃・岩村(岐阜県)から信濃・根羽(長野県・根羽村)に入り武田の領国に足を踏み入れます。といってもすでにこの地域は織田の勢力下になっていましたが・・・

14日、浪合(長野県下伊那郡浪合村)に着陣。ここで武田勝頼・信勝父子の首と対面。奇しくもこの地(根羽や浪合)は、武田信玄が死んだとされる地でもありました。
※信州駒場(下伊那郡阿智村)説なども有ります。

15日、この日は昼ごろから大雨になったようですが、飯田に入った信長は、ここで勝頼・信勝の首を晒し、織田軍の将兵はこれを見物したそうです。