天正10(1582)年3月19日、信長が上諏訪の法花寺に着陣した頃、徳川家中にも信長の安土への帰国に関する情報がもたらされます。

17日に徳川家康は信長に挨拶に出向いているようで、この日かそれよりも少し前に帰国の日程が告げられたのかもしれません。

19日の『家忠日記』によると、信長が三河経由で安土に帰国するということで、酒左衆(酒井忠次配下の衆)に本栖(山梨県西八代郡上九一色村)へ集まるよう命じられます。

23日、酒井配下に属していた家康の家臣・松平家忠は、本栖へ行き、25日から信長一行を出迎えるための御茶屋建設に従事することになります。

家忠自身、このあとも4月5日から女坂茶屋建設、さらに9日には女坂の道路?普請作業に従事しており、徳川家臣団及び多くの領民らは同様に信長一行を出迎えるための準備に大わらわの日々を送っていたものと思われます。

徳川家臣団が行った普請作業は御茶屋の建設の他、陣屋や御厩の建設それ以外にも道路の整備や警備さらに信長一行をもてなす料理の準備など多岐にわたり、肉体的にも精神的にも休まることのない日々を過ごします。

徳川家臣団が信長のことを“上様”と呼んでいたかは不明ですが、『家忠日記』では信長の行動を“御成”と表記しており、この言葉は征夷大将軍に用いられる言葉のため家忠はじめ多くの者が、この時期すでに信長のことを“将軍的”な存在として見ていたものと思われます。

こののち信長が甲府を立つのは、4月10日のことになりますが、家康はじめ徳川家臣団の徹底した心遣いは信長を大喜びさせることになります。