滝川一益天正10(1582)年3月20日、徳川家中が信長一行を迎える準備に奔走している頃、上諏訪の法花寺の信長本陣には、武田の旧臣が次々と挨拶に訪れていました。

この日、信長の家臣・菅屋長頼の勧めで木曽義昌が挨拶に訪れ信長に馬2頭を献上。取次ぎの滝川一益を介し、信長も刀と黄金100枚を木曽に与えます。さらに木曽の本領に加え、信濃二郡もあわせて与えます。義昌退出の際、信長は縁まで見送ったそうです。

木曽が帰ったあと夕刻には、穴山信君も信長のもとを訪れ、馬を献上。信長も脇差や小刀等を信君に与え本領を安堵します。

信君のあと、今度は小笠原信嶺も挨拶に訪れ馬を献上。信長は矢部家定・森乱丸を使者とし本領安堵の朱印状を小笠原に与えます。

21日、北条氏政は、武田領平定を祝し、使者を送り馬や酒・白鳥を信長に献上。滝川一益が取次ぎを勤めます。

23日、信長は滝川一益を召し寄せ、上野国(群馬県)及び信濃二郡(佐久・小県)を与え、関東八州の警護を命じます。これにより一益は関東管領“的”な立場になります。
信長は、当時としては高齢(この時推定58歳)の一益を遠国上野に派遣するのは気の毒と思いながらも「老後のもうひと働きとして東国支配の取次ぎ役一切を委任する」とし、秘蔵の葡萄鹿毛(えびかげ)の馬も与え「この馬に乗り入国するがよい」と気遣いを見せています。一益は数日後、この馬に乗り?上野国箕輪城に入城することになります。

一益、上野国拝領の際、有名な逸話がありますね。では簡単にご紹介。
信長が「此度の戦で武田攻めで手柄を立てたら、大名物の茶器『珠光小茄子』を与えよう」と一益にいいます。
一益は、信忠の補佐役として、武田攻めの先陣を務め大活躍をし、上野一国と信濃二郡を与えられ、さらに関東管領級の役職も任され大出世を果たします。しかし、約束の茶器がもらえなかったことが悔しかったようで、一益は「領地や役職よりも茶器が欲しかった」と愚痴をこぼしていたとか。