天正10(1582)年3月24日、旧武田領内各地で駐留している各部隊に兵糧を支給することを決め菅屋長頼に兵員名簿の作成を命じ、深志城(松本城)にて兵の人数に応じ兵糧を支給します。

25日、上野(群馬県)の小幡信真(憲重の嫡子。信実とも)が甲府の織田信忠のもとを訪れ恭順の意を表します。小幡は、滝川一益の与力に付けられ、上野への案内役を命じられます。一益は、小幡と共に早速、新領国である上野に向け出発します。

26日、再び北条氏政が馬のエサとして米1000表を諏訪の信長に献上。信長への徹底恭順の意を示します。武田家が滅亡し、次の標的になるのをかなり恐れていたように思います。

そして同日と思われますが、信長は武田攻めに際し、名城として名高い高遠城を攻略した信忠に褒美として梨地蒔絵拵えの刀を与えると共に「天下支配の権も譲ろう」と伝えます。天正3(1575)年にすでに家督は譲っていたものの実権は信長が握っていました。しかし、武田攻めは、一益ら重臣の補佐があったとはいえ、基本的に信忠指揮の下遂行され短期間で勝利し、信長も信忠の成長を喜ぶと共に最も脅威を感じていた武田家を滅ぼしたことで、信忠に天下を任せても安心というような気持ちになったのかもしれません。
甲府でこの褒美の品を受け取った信忠はすぐさま信長に礼を述べるため出発。

28日、信忠は諏訪の法花寺に到着。早速、信長に挨拶したものと思われます。
この日は一時的に豪雨が降り、風の強い非常に寒い日だったようで各地で凍死する者が多数出るという天気でした。
そんな状況の中、信長は富士山を見物しながら帰国の途につくことを告げ、諸将のみ信長と同行するよう命じ、その他の兵たちに帰国の許可を与えます。

29日、多くの兵がそれぞれ帰国の途につきます。

まだ不安定な旧武田領内にいる状況で、配下の兵を帰国させ、さらに富士山を見物しながら帰国するという信長の行動を見ると、信玄没後も武田家は信長にとって最大の脅威であり、その滅亡は信長に天下統一を成し遂げたような、そんな気持ちにさせたのかもしれません・・・?