天正10(1582)年3月下旬、滝川一益は上野(群馬県)箕輪城に入城。その後すぐに厩橋城に居城を移しますが、ここへ近隣の諸将が人質を伴い次々と出仕し、関東を支配する立場になった一益に挨拶をします。出仕した主なも武将は小幡信真・由良国繁・長尾顕長・北条(きたじょう)高広・上田政朝らでしたが、この中に真田昌幸もいました。

織田軍による武田攻めに際し、真田昌幸は主君・武田勝頼に自領の岩櫃城(群馬県・東吾妻町)に入ることを勧めましたが、側近の進言に従い勝頼は小山田信茂の下へ向かい裏切りに遭い自刃して果てたため、織田軍との大きな交戦はなかったようです。

勝頼が自刃して果てた翌日の3月12日には早速、鉢形城(埼玉県秩父郡長瀞町)の北条氏邦から北条氏直の配下に属することを促す書状が届きます。氏直の母は武田信玄の娘の黄梅院ということで、氏直は旧主・信玄の孫。

3月18日、昌幸は北条氏の配下になることを拒否し、織田信長に従う決断をしたようです。

4月に入り昌幸は信長に馬を献上し、更に長女・於国(後の村松殿)を安土城へ人質として送ったようです。
臣従を認められた昌幸は、滝川一益の与力武将となりますが、対上杉の拠点となる沼田城は没収されてしまいます。

この後、信長の天下統一に活躍するはずでしたが、本能寺の変により信長が死去すると北条氏は織田家に反旗を翻し滝川一益の領国に侵攻。神流川の戦いといわれるこの戦いに昌幸は一益の配下として参戦。大敗を喫した一益は本領の伊勢へ落ちることになりますが、その際に昌幸は一益の脱出を助けたそうです。その後、昌幸は主家を北条⇒徳川⇒上杉⇒豊臣と次々と変えることになります。

余談ですが、後に滝川一益の嫡孫にあたる一積 (かずあつ)は、正室に真田昌幸の五女・於菊を迎え長男・一明を儲けます。さらに大坂の陣で討死にした真田信繁(幸村:昌幸の次男)の娘を養女に迎え、蒲生郷喜に嫁がせるなど真田家のために尽力しますが、これは一益が昌幸に助けてもらった恩返しなのかもしれません。