天正10(1582)年5月、信長は本格的に四国の長宗我部元親討伐に着手。

四国統一を目前にした長宗我部元親に対し、信長はこれまで「四国は手柄次第切り取ってよい」としていた方針を転換し、天正9年末頃?「土佐一国と阿波南半国の領有を認めるが伊予と讃岐は返還するよう」命じます。自力で勝ち取った所領の返還要求を元親は拒否。天正10年1月、明智光秀の家臣で斎藤利三の実兄である石谷頼辰は、義弟に当たる元親を説得するべく四国に渡りますが決裂。信長は、長宗我部氏討伐を決意。

2月の武田攻めの際の出した命令で、三好山城守康慶(康長・笑巌)は四国への出陣を命じられます。

5月までの間に信長の三男・神戸信孝は四国攻めの総大将を命じられたのを機に三好康慶の養子となることが決められたようで、本能寺の変以降織田姓に復した信孝ですがわずかな期間でしたが“三好信孝”となっていた可能性が高いようです。

5月上旬、三好康慶は先陣として3000の兵を率い阿波勝端に着陣。長宗我部方の一ノ宮・夷山表に攻め掛かり両城を攻略。

5月7日付けの信長朱印状で「讃岐は信孝に与える。阿波は三好康慶に与える。土佐・伊予については信長が淡路に出馬した時に申し伝える」とし、同じ書状の中で信孝に対し「三好康慶のことを主君とも親とも思い忠節を尽くすよう」に命じています。

5月11日、信孝は譜代衆や北伊勢衆を率い、住吉(大阪市住吉区)に向け出陣。途中安土に立ち寄り信長に挨拶をしたようです。(『信長公記』ではこの日、住吉到着となっています)
この安土滞在中、徳川家康や穴山信君も安土を訪れることになります。

5月29日、総大将信孝、丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄を副将とし、近江や伊賀・丹波・紀伊など広範囲から動員された四国遠征軍約1万5000が住吉に着陣。
四国渡航直前、大事件が勃発することになります。


※主に 『だれが信長を殺したのか』(桐野作人著)を引用・参考にしました。