備中高松城跡天正10(1582)年5月、安土に家康が訪れている頃、備中(岡山県西部)の高松城を攻めている羽柴秀吉は、危機を迎えていました。秀吉が備中に出陣したのは、この年3月15日ごろ。武田勝頼が自刃した4日後。

3月19日、秀吉は配下の宇喜多氏の城・沼城(岡山市)に入城。毛利方が対織田戦に備えて足守川(くもつ川・えつた川)周辺に築城した「境目七城」と呼ばれる七つの城、宮路山城・冠山城・備中高松城・鴨城・庭瀬城(以上岡山市)・日幡城・松島城(以上倉敷市)をいかに攻略するか検討を始めます。

4月11日、秀吉は、日幡城の城主・日幡六郎兵衛と毛利氏から派遣された上原元祐に調略を仕掛けます。六郎兵衛は拒否しますが、小早川隆景の義弟に当たる上原元祐は内通し、六郎兵衛の弟や家臣らを味方につけ六郎兵衛を謀殺。日幡城は秀吉の手に落ちます。

14日、秀吉は冠山城を攻め落とし、宮路山・鴨両城も陥落。敗走した兵らは備中高松城に逃げ込み城兵は、毛利氏からの援軍2千も含め5千になります。
さらに毛利氏からは、小早川隆景が出陣し、備中福山城(岡山県総社市)に布陣。秀吉も、備中高松城北方の竜王山に布陣。

27日、両者にらみ合いが続く中、秀吉は備中高松城に力攻めを仕掛けますが、周囲が沼に囲まれた城に攻めあぐね、3万もの兵を動員しながら惨敗を喫し退却。

5月上旬、再び力攻めを強行するも結果は同様。作戦を「水攻め」に切り替えます。
8日から堤防作りに着手。秀吉は莫大な資金を投入して周辺の領民らを雇い、12日後の20日頃には堤防工事は完了。
せき止めていた足守川の水を一気に流し込み、備中高松城はあっという間に周囲を水で囲まれ孤立します。

21日、このような状況下、毛利輝元率いる本隊が救援のため到着。これよりも早い時期に吉川元春も到着しており、秀吉軍は、兵力において劣勢にたたされます。

秀吉は備中高松城に迫った頃からたびたび信長に援軍要請をしていたようで、毛利本隊到着の数日前には安土の信長のもとに毛利本隊接近の報せは届けられていたようで、信長は明智光秀をはじめ細川忠興や池田恒興・高山重友らを援軍の先陣として出陣させることを決めます。
毛利氏との決戦は目前に迫っていました・・・


※主に 『秀吉 戦国城盗り物語』(外川淳著)を引用・参考にしました。